経済学講義 

    〜〜 悪魔の見えざる手 〜〜 

                   南堂 久史

 
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●前書き   
 
 経済学には、謎がある。その謎を解き明かすことが、本書の目的だ。──とはいえ、そういう主張には、多くの経済学者が反発するかもしれない。次のように。
 「経済学には、謎なんかない。未解決の問題はあるが、根本的な謎はない。経済学はすでに十分な成果をなしとげた。経済学は正しい学問なのだ」
 しかし、そうか? 経済学は正しい学問なのだろうか? 仮に、そうであるとすれば、二つの条件を満たす必要がある。
   ・ 結論はただ一通りであること
   ・ 結論が現実世界で検証されること
 この二つの条件は、普通の科学では満たされる。たとえば、物理学ではそうだ。物体の運動がどうなるかについては、結論はただ一通りであるし、その結論は実験的に検証される。
 しかし経済学では、そうではない。結論は、ただ一通りであるどころか、何通りもある。特に、古典派とケインズ派は、相反する(矛盾する)結論を出して、両者が「正しいのは自分だ」と言い張っている。また、いくつもある結論はいずれも、現実の経済において検証されていない。古典派の処方であれ、ケインズ派の処方であれ、たとえ処方に従っても、現実は処方の予測には従わない。(たとえば、バブル崩壊後の日本経済は、どの処方に従っても、不況からなかなか抜け出せない。)
 経済学は、未完成な学問である。いや、学問ですらないとも言える。なぜなら、「経済学者の処方に従うと、改善の幅が不足する」というふうになるどころか、「経済学者の処方に従うと、かえって悪化する」というふうになるからだ。たとえば、不況対策では、次のようになる。
 
         ( 処方 → 結果 )
   ・ 生産性の向上 → リストラが進んで、失業者が増える。
   ・ 不良債権処理 → 倒産処理で景気が悪化し、倒産がさらに増える。
   ・ 規制緩和    → 価格の下落で、企業の赤字が増える。
 
 これらの処方をいくらやっても、メリットはろくになく、デメリットばかりがやたらと蓄積する。経済学者の処方に従えば従うほど、状況は悪化するばかりだ。つまり経済学は、真実を語る学問というよりは、嘘つきのデタラメに近い。
 では、経済学者の言葉に従わなければいいのか? 実は、経済学者自身が、そう語ることもある。それは、「神の見えざる手」という概念だ。「自由放任でいい。何もしなくていい。経済学者も政府も、無為無策でいい」と。
 しかし、その説が正しければ、経済学も経済学者も、ともに不要であるはずだ。つまり、「神の見えざる手」という概念を出したとき、経済学者は、自分自身が不要であることを証明したことになる。
 そしてまた、「神の見えざる手」ということは、現実には成立しない。なぜか? 現実を見よう。バブル破裂後に、ひどい不況になった。このころ、「神の見えざる手」が働いていなかったわけではなくて、神の見えざる手」は働いていたのだ。するとひとりでに、「バブル破裂から不況へ」というふうに移行していったのだ。つまり、「神の見えざる手」のせいで不況は生じたのだ。
 とすれば、「神の見えざる手」と呼ばれるものは、むしろ、「悪魔の見えざる手」と呼ばれるべきであろう。同じ一つのものが、あるときは「神の見えざる手」となり、あるときは「悪魔の見えざる手」となる。あるときは善をなし、あるときは悪をなす。
 では、なぜ、そうなるのか? ──その謎を探ることが、本書の目的だ。
 

 
●序章   
 
■緒言   
 
 あらかじめ、全体を見渡そう。本書全体が何を扱うかをざっと紹介する。すでに述べたように、経済学には、謎がある。では、謎とは何か?
 
◇謎の提示   
 
 まず初めに、謎を謎として提示しよう。
 経済学には、謎がある。その謎は、ただの謎ではない。とてつもなく巨大な謎だ。
 どんな学問であれ、「未解決の問題」という謎ならたくさんある。そして、たくさんある謎を次々と解決していくことで、それぞれの学問はいずれも発達していった。たとえば物理学では、「原子とは何か」という謎があった。天文学では、「宇宙の年齢はどのくらいか」という謎があった。数学では、「フェルマーの定理は正しいか」という謎があった。……こういう謎を次々と解決していくことで、物理学や天文学や数学はいずれも発展していった。
 経済学にも、謎がある。ただしその謎は、「未解決の問題」というような、生やさしい謎ではない。それは、学問全体にわたる謎であり、学問そのものを脅かす謎だ。すなわち、こうだ。
 「経済学は正しい学問であるか」
 これは巨大な謎だ。経済学という学問では、知識の集積はたくさん得られている。しかるに、それらの知識が正しいという保証がないのだ。通常の科学なら、物理学であれ、天文学であれ、数学であれ、そこで得られた知識が正しいということは、すでに検証されている。その検証手段が、実験や観測だ。ところが、経済学では、歴史的事実を見ても、「経済学が正しい」ということはまったく検証されていない。
 むしろ、「現在の経済学は無効である」とすら明言できる。たとえば、一九九〇年代の不況に対して、経済学者は次のように主張をした。
 「生産性を向上させよ」
 「金利を下げよ」
 「量的緩和をせよ」
 「不良債権処理をせよ」
 「財政を健全化せよ」
 「公共事業を増やせ」
 しかしそのどれもが、失敗に終わったのだ。唯一、いくらか景気回復効果があったのは、「円安」政策だった。円安のおかげで、二〇〇〇年および二〇〇三年ごろ、輸出産業を中心にいくらか景気回復効果があった。とはいえ、これは皮肉な成功だった。なぜか?
 第1に、「円安」政策というのは、国家による強引な為替管理である。それは、近代的な自由主義経済というよりは、社会主義的な国家統制経済である。つまり、経済学の原理に反している。
 第2に、いくら外需拡大の効果があったとはいえ、「日本が生産量を増やして、米国が生産量を減らす」ということがあっただけだ。両者を合わせれば、差し引きしてゼロだ。こんな処方は本質的ではない。(たとえて言うと、右手から左手へ金を移動させて、「左手の金が増えた」と喜ぶようなものだ。)実際、「外需拡大による景気回復」という政策は、各国がそろって取ることはできない政策だ。やれば、奪い合いとなるだけだ。
 というわけで、いくら「円安」に効果があったと見えても、それは経済政策として成功したことにはならないわけだ。
 こういう失敗と無効の現実を見れば、「経済学は正しい」とは言えない、とわかる。つまり、「経済学は正しい学問であるか」という質問に対しては、「正しくない」という否定的な返事を出すことしかできそうにない。
 
 では、なぜか? 経済学はなぜ、正しい学問とはなりえないのか? ──それが根本的な謎となる。そして、この根本的な謎こそ、本書の扱う問題である。
 とはいえ、問題提起だけなら、本書があえて声高に語るまでもない。これまでも多くの経済学者が、問題提起を語ってきた。次のように。
 「古典派とケインズ派が対立したままだ。両者が一つの学問として統合されていない。これは問題だ」
 「ミクロ経済学とマクロ経済学という二つの分野が、分離したままだ。両者が一つの体系に統合されていない。これは問題だ」
 
 こういう問題提起が、たびたびなされたきた。そうだ。たしかに経済学には問題があるということが認識されている。にもかかわらず、問題はこれまで解決されなかったのである。というより、問題を解決しようという努力があっても、ことごとく水泡に帰してきたのである。
 本書はどうするか? 問題を提起するだけでなくて、問題をまさしく解決しようとする。では、どうやって? 既存の経済学を拡張することによって? いや、既存の経済学を根本から全否定することによって。──では、既存の経済学とは、何か? それは、次の原理を基盤とするものだ。
 「神の見えざる手」
 これが経済学の基盤となっている。この基盤を、本書は否定しようとする。いわば、神を信じている人に向かって、「神は存在しない」と語るように。
 
◇謎の解決   
 
 謎の提示のあとで、謎の解決を示そう。といっても、細かなことは後回しにして、今は核心となる点だけを簡単に示す。一言で言えば、本書の核心はこうだ。
   「『神』だと思われているものは、実は『悪魔』である」
 そうだ。われわれが神だと信じているものは、神でなく、悪魔なのだ。神らしい仮面の下には、悪魔の素顔がある。──少なくとも、経済学の世界では、そうなのだ。
 これはもちろん比喩である。以下ではもっと詳しく説明しよう。
 
 神というものは、字義通りの意味でなら、学問の世界では考慮されない。しかし比喩的な意味でなら、経済学の世界ではしっかりと信じられている。──ただし、正確に言えば、「神」そのものではなく、「神の見えざる手」が。すなわち、
 「神の見えざる手によって、経済状況は最適化される」
 こういう理念がある。この理念は、現在の経済学ではひろく信じられている。──とはいえ、経済学に無縁な読者は、あまりピンと来ないだろう。そこで、「神」という言葉を、「自由」という言葉に置き換えるといい。「自由」という神を、現代人がいかに信仰しているか、よくわかるはずだ。
 「自由は素晴らしい」
 「自由は何より大切だ」
 「自由を推進すれば、万事はうまく行く」
 こう信じている人々は非常に多い。この理念を否定する者が現れれば、異端の悪人として、排撃されるだろう。ちょうど、中世の欧州で、神を批判する人が異端者として火あぶりにされたように。
 本書は異端の書である。正確に言えば、「自由」という神を信奉している人々にとって、異端と思える書である。なぜなら本書は、「自由」という神を否定しているからだ。かわりに、真実を主張するからだ。ちょうどガリレオが、地動説という真実を唱えたように。
 本書は、「自由」という神を否定する。かわりに、「悪魔の見えざる手」という概念を導入する。
 では、「悪魔の見えざる手」とは、何か? ──それは、「神の見えざる手」と同じものだ。ただし、同じものが別の姿で現れる。同じものが、あるときは神としてふるまい、あるときは悪魔としてふるまう。同じものが、楽園へ誘うと見せかけながら、地獄に誘う。──だからこそ、本書は警告するのだ。「悪魔にたぶらかされるな」と。
 経済学者は普通、「神の見えざる手」を主張する。その主張は、「地上は楽園だ」と語っているのも同然だ。「神のおかげで、地上は楽園になる」と。しかしながら現実には、地上は楽園ではない。人間の世界には、倒産もあるし、失業もある。
 われわれの住む地上は、楽園ではないし、不幸もある。ただし肝心なのは、不幸があること自体ではない。不幸があるときに、不幸から目を逸らすことだ。不幸を不幸と認識せずに、不幸を幸福と錯覚することだ。
 多くの経済学者は、人々を錯覚させようとする。不況のさなかで、こう甘くささやく。
 「ここは幸福です。ここは神が導いてくれた状況です。だから、ここは幸福なのです。たとえ不幸だと感じられたとしても、本当は幸福なのです。だからこのまま、何もしないでいい。すべてを神の手に委ねなさい」
 多くの経済学者は、天使のように甘い声でささやく。しかしその声は、天使の声ではなくて、悪魔の声なのだ。──だからこそ、本書はこう警告する。
 「『神の手』と信じられているものは、『神の手』ではなくて『悪魔の手』なのだ。この地上が楽園だということはない。この地上には幸福も不幸もある。さあ。目を開け。真実を見よ」と。
 そうだ。真実を見ること。──これこそが、本書の訴えたいことだ。そして、そのために、痛みによって覚醒させるための言葉を用意した。それが、「悪魔の見えざる手」という言葉なのだ。
 
 [ 補足 ]
 以上の話は、比喩である。比喩を普通の言葉に置き換えれば、以下のようになる。
   地獄 …… 不況
   楽園 …… 最適状態
    神   …… 自由
 ではなぜ、比喩を用いたのか? なぜ、学術的な用語でなく文学的な比喩を用いたのか? それは、核心を一言で示すためだ。
 そもそも、巨大な学問体系を、一言で示すことはできない。とすれば、学術的な正確さよりは、直感的な理解を優先させたい。そのために、ここでは比喩を用いたのだ。──なお、学術的な話は、このあと長々と示す。
 
■概要   
 
 肝心の本論は、かなりあとの、第T章から始まる。その前に、全体の概要をざっと示しておこう。
 
◇神の見えざる手   
 
 経済学の困難は、その最も基礎的なところにある。たとえて言えば、数学や物理学で、根幹となる公理や法則に難点があるように。(小さな問題が残っている、というようなわけとは違う。)
 では、経済学で最も基礎的なものとは? それは、「神の見えざる手」だ。──この概念は、よく知られている。簡単に言えば、次のことだ。
 「市場原理と自由放任によって、経済は最適化する」
 これを最初に唱えたのは、有名なアダム・スミスである。彼が十八世紀後半に、「見えざる手」invisible hand という用語を提出して以来、今日までこれはずっと信じられてきた。経済学者の間でも、世間の人々の間でも、信じられてきた。
 ではなぜ、信じられてきたか? 理由は、次の二つだ。
   ・ 自由経済の逆(社会主義経済)が、二十世紀に大失敗したこと。
   ・ 「自由」という概念が、もともと尊重されていたこと。
 前者は、言わずもがなだろう。社会主義による統制経済は、二十世紀の共産圏で大失敗した。かくて、その逆の、市場経済や自由経済というものが正しいと見なされた。
 後者は、説明を要する。「自由」を尊重する思想があるが、これと対比されるのは、社会主義ではなく、封建主義や権威主義だ。領主や政府などが、民衆を強権支配することがあった。そこで、それに反発する形で、個人を大切にする「自由」を尊重しよう、という思想が生じた。この思想は政治的には、保守派にとっても革新派にとっても、自分勝手に都合よく解釈された。──こうして、「自由」を尊重する思想が生じた。その延長上に、「自由経済」を尊重する思想が生じた。
 ただし、留意しよう。経済学的には、「自由尊重」という思想は、ただの素朴な信念であるにすぎない。二百年以上も前にアダム・スミスが主張したときや、現代でも多くの素人が信じたとき、そこには、緻密で厳密な理論があったわけではなく、素朴で直感的な思い込みがあっただけだ。
 そして、その思い込みはやがて、現実と衝突することになる。
 
◇現実との矛盾   
 
 「神の見えざる手」という原理。これは、元来、正しいことだと信じられてきた。「この原理で、経済現象をうまく説明できるはずだ」と。しかるにやがて、うまく説明しきれない現実と向かいあうことになった。
 それは、「不況」という問題だ。「神の見えざる手」という原理によれば、自由放任にするだけで、経済は最適化されるはずだ。しかるに、現実には、そうはならない。
 たとえば、典型的な場合として、「世界大恐慌」がある。一九二九年に始まるこの不況では、放置しても、経済は最適化されなかった。それどころか、放置しているうちに、最悪の状況へと転落していった。いわば、「神の見えざる手」に導かれるのでなく、「悪魔の見えざる手」に導かれるように。
 しかも、皮肉なことも起こった。まさしく放置していれば(つまり何もしないでいれば)、状況はあまりひどくはならなかったはずだ。ところが実際には、経済学者の処方に従った。状況を改善させようとして、あれこれと処置を取って、あがいた。だが、あがけばあがくほど、状況は改善されるどころか、悪化していった。いわば、あがいたせいで、水に溺れるように。
 このとき経済学は、無効になるだけでなく、有害になったのだ。真実に近づけなかったどころか、真実とは逆の方向に近づいていったのだ。
( ※ 一九九〇年代の日本にも、同様のことは当てはまる。このころ、政府は不況を解決するために、さまざまな処方を取った。「財政再建」「不良債権処理」などだ。すると、どうなったか? 状況は、改善されるどころか、悪化していった。つまり、世界大恐慌のときの失敗を、またも繰り返したわけだ。)
 
◇ケインズ   
 
 世界大恐慌は、一九二九年起こった。そのあと一九三〇年代では、うまく解決しないままだった。
 こういう状況のさなかで、ケインズが登場した。ケインズは、一九三六年の著作で、これまでの経済学とはまったく異なる理論を提出した。その理論は、「神の見えざる手」とは違うことを主張していた。
 ただし、注意しよう。ケインズの理論は、「神の見えざる手」を否定したが、「神の見えざる手」とは逆のことを主張したわけではない。「自由放任」を否定したが、「国家統制経済」を主張したわけではない。では、何を主張したか? こうだ。──市場原理という枠組みそのものは、維持する。その意味で、社会主義とは異なる。ただし、市場の内部には介入しないが、市場全体の規模を調整する。個々の取引には介入しないが、個々の取引の全体となる量を調整する。
 比喩的に、(お菓子の)パイで言おう。パイの配分法には介入しないが、パイの大小は調整する。たとえば、10人の人間がいて、7人分のパイしかない場合がある。この場合、、パイが小さすぎる。そこで、「パイの大きさを7人分から10人分に増やす」というふうに、パイの全体量を調整する。一方、10人の人間がいて、12人分のパイがある場合もある。この場合、パイは余っている。だから何も調整しない。あとの配分法については、各人の相談に任せる。(その原理が、「市場原理」である。つまり、「最も高い値を付けたものが取る」ということで最適配分する、という原理だ。)
 ケインズは、二つの分野を区別してから、二つの分野に、それぞれ別の名称を付けた。次のように。
   ・ ミクロ経済学 …… 市場内部の配分法を扱う
   ・ マクロ経済学 …… 市場全体の規模を調整する
 ミクロ経済学の分野については、異論は少ない。そこでは、「神の見えざる手」が成立するはずだ。それで話は片付く。
 マクロ経済学の分野については、異論がある。主として二つの立場があり、次のように対比される。
   ・ ケインズ …… マクロの分野では、政府による調整が必要だ。
   ・ 古典派   …… マクロの分野でも、原則として自由放任でいい。
 ケインズは、マクロの分野をミクロとは別の分野として認めるので、二つの分野を区別する。一方、古典派は、マクロの分野をミクロの分野から独立したものと認めないので、二つの分野を区別しない。(マクロをミクロと一緒くたにして考える。)
 かくて、経済学者は、対立する二つの流派に分かれることになった。
 
◇対立と混沌   
 
 経済学には、ケインズ派と古典派がある。では、どちらが正しいか? 素人ならば、そう尋ねるだろう。そこで、歴史を見よう。すると経済学の歴史では、両者の盛衰があったとわかる。
 最初は、古典派だけが存在した。アダム・スミスと、その後継者たちである。のちに、二十世紀になってようやく、ケインズの理論が登場した。それが一九三〇年代のことだ。そのあと、ケインズ派は、だんだんと支持を増やしていった。
 さて。一九三〇年代には、世界大恐慌のあとの対策として、ニューディール政策が実施された。これは、「ケインズの学説に合致する」としばしば言われるが、効果はろくになかった。いくらかは効果があったのだろうが、効果はあまりにも小さすぎたので、不況からの脱出にはついぞ成功しなかった。
 一九三九年から一九四五年にかけて、第二次大戦があった。するとにわかに、不況は解決した。経済学にはできなかった不況の解決が、戦争にはできたのだ。
 では戦争は、経済学者よりも優秀だったのか? 実は、戦争による解決は、皮肉な解決すぎなかった。たしかに戦争によって、不況から脱出することはできた。しかしそのかわり、もっとひどい状況となったのだ。人々は、失業を脱して、働くようになったが、働いても働いても、物価上昇のせいで生活は苦しくなった。簡単に言えば、失業者から奴隷に転じたのである。(無賃労働をしながら殺し合っていただけだ。)
 やがて、大戦が終わった。もはや軍備生産の必要はなくなった。ここでようやく、まともな経済状況となった。日欧は当初、戦災のせいでろくに生産力もなかったが、混乱のなかで、経済はだんだん回復していった。やがて、回復が進んでいったすえに、普通の経済状況となった。
 普通の経済状況では、普通の景気変動が発生した。ときどき、小規模の景気後退が起こったが、ここではケインズ的な処方が効果を発揮して、景気後退から脱出することは可能だった。このころは、ケインズ派の絶頂期だった。
 一九七〇年代になると、石油ショックが起こった。このとき、ケインズ政策の限界がはっきりとした。日本では「列島改造論」という名のもとで、ケインズ的な政策が取られたが、その結果はどうだったか? 狙ったような経済成長は起こらなかった。むしろ、急激な物価上昇という大混乱が起こった。ここでは、ケインズ政策は、良薬というより毒薬のごとき効果を発揮して、経済を破壊した。
 欧州では、ケインズ政策は取られなかった。しかしやはり、原油価格高騰の影響で、物価上昇が発生した。
 日本でも欧州でも、物価上昇を抑制するために、高金利政策が実施された。その結果、物価上昇は抑制できた。ただし副作用の形で、別の問題が生じた。高金利に耐えかねた企業が、どんどん倒産していったのだ。もちろん失業者もどんどん発生した。かといって、高金利の手を緩めると、物価が過度に上昇した。──こうして、「景気悪化と物価上昇」という、対立する二つの問題が同時に発生した。これは、「スタグフレーション」という状況である。
 スタグフレーションに直面すると、経済学はふたたび無力になった。ケインズ政策を実施すると、クラウディング・アウトという現象が起こった。すなわち、投資が減り、供給力が減退して、状況は悪化するばかりだった。かといって、高金利政策を実施しても、倒産と失業が増えるばかりだった。いずれにせよ、状況は悪化するばかりだった。──こうして、ふたたび、「経済学者の処方に従うと、状況はかえって悪化する」という事態になった。
 スタグフレーションの解決法は、ついに見出されなかった。ただし、解決法は見出されなくても、問題の方で勝手に消えてくれた。つまり現実の側で、「原油価格の高騰」という原因がだんだん解消していったおかげで、スタグフレーションという結果もだんだん解消していったのだ。かくて、経済学者は、おのれの失敗の責任を問われることもなかった。
 一九八〇年代は、かなり平穏だった。せいぜい、通貨レートの変動による問題があったぐらいだ。これは、通貨レートを人為的に変更したのが原因なので、通貨レートを人為的に変更するのをやめると、問題は自然に解消していった。ここでもまた、経済学者が責任を問われることはなかった。失敗の責任は、自国の威信を過大に見せたがっていた、政治家の側にあったからだ。(ピノキオみたいに、鼻を高くしたいと望んだせいで、トラブルに見舞われたわけだ。)
 一九九〇年代になると、新たな現象が生じた。日本では、バブル破裂のあとで、大規模な不況に見舞われた。それでも初めのうちは、楽観的な予測が優勢だった。「これはただの景気循環さ。好況が続いたから、山から谷に移る形で、不況になっただけさ。どうせまた景気循環で、不況から好況に転じるさ。たぶん四年後に」と。──ところが、楽観的な予測は見事にはずれた。不況は以後も、ずっと続いた。「二年後には景気は好転するだろう」とエコノミストは予測したが、その同じ予測が何度も何度も繰り返されるばかりだった。「あと二年後」「あと二年後」「あと二年後」というふうに。……ちょうど、「オオカミが来るぞ」「オオカミが来るぞ」と繰り返す、嘘つき少年のように。
 そうするうちに、日本の不況はひどく深刻化していった。二〇〇〇年ごろには、金利はゼロ金利になった。これは歴史的に空前の事態である。このとき、経済学者の処方はすべて無効になった。なるほど、「公共事業」という処方もあるし、「金融緩和」という処方もある。それらは小さな景気後退のときなら、有効だった。ところが、「物価下落」をともなうような大きな不況のときには、「公共投資」も「金融緩和」も無効になった。さらには、「構造改革」「不良債権処理」「規制緩和」などのさまざまな処方も、ことごとく無効になった。かくて経済学は、完全に無力になった。いわば手足をもがれたように。
 二十世紀の最後に、経済学は危機に見舞われた。小さな不況については有効だと思えた経済学も、大きな不況についてはまったく無力になった。そのことで、経済学そのものに、大きな疑問符を突きつけられたのだ。──「経済学は学問として本当に正しいのか?」と。「???」と。
 
◇新しい経済学   
 
 ここまで、従来の経済学について、歴史的に振り返ってみた。何が問題であり、何が未解決であったか、と。
 問題点は判明すると、そのあとで、二つの立場が現れる。「従来の経済学を修正しよう」という立場と、「従来の経済学のかわりに、新しい経済学を提出しよう」という立場だ。漸進主義と、革新主義だ。
 本書は、後者の立場を取る。すなわち、現在の経済学のかわりに、新しい経済学を示そうとする。具体的には、新しい理論体系を構築するような、新しいモデルを提出する。
 その新しいモデルは、二つある。ミクロのためのモデルと、マクロのためのモデルだ。簡単に説明しておこう。
 ミクロのモデルは、「トリオモデル」と呼ばれる。これは、市場の原理を説明するモデルだ。「需給曲線」というモデルを拡張したものと言える。
 マクロのモデルは、「修正ケインズモデル」と呼ばれる。これは、マクロ経済の原理を説明するモデルだ。「45度線モデル」というモデルを拡張したものと言える。
 両者を並置すれば、こう書ける。
   ・ トリオモデル      ( ← 需給曲線 )
   ・ 修正ケインズモデル ( ← 45度線モデル )
 この二つの新しいモデルがある。いずれも、既存のモデルを拡張したものと言える。その意味で、従来の経済学の延長上にある。とはいえ、新しいモデルは、従来のモデルを部分的に修正したものではない。形の上ではかなり似ているが、根本的な改変を経た上で、まったく別のモデルに生まれ変わっている。改変の前と比べると、思想基盤もまったく異なるし、結論もまったく異なる。
 新しいモデルは、従来のモデルと比べて、どこがどう違うか? ──最大の違いは、「不均衡」を主眼とすることだ。古典派のモデルも、ケインズのモデルも、従来の経済学のモデルはいずれも、「均衡」を扱うためのモデルだった。しかし本書に現れる新しいモデルは、「不均衡」を扱うためのモデルなのだ。
 ともあれ以下では、「トリオモデル」と「修正ケインズモデル」という二つのモデルについて、ざっと解説しておこう。
 
◇トリオモデル   
 
 新しいモデルは二つある。そのうち、「トリオモデル」について解説しよう。
 このモデルの原型となるのは、「需要曲線」というモデルだ。これは、従来からあるもので、誰でも知っているはずだ。図のとおり。(この図で、縦軸は価格、横軸は量。)
 
[ 第1図(需給曲線 の図)] 
 

 
 この図には、二つの曲線がある。右下がりの曲線は、「需要曲線」である。右上がりの曲線は、「供給曲線」である。それぞれ、次のことを示す。
   ・ 需要曲線 …… 価格が上がると、需要量が減る。
   ・ 供給曲線 …… 価格が上がると、供給量が増える。
 この二つの曲線は、一点で交差する。この交点が「均衡点」である。
 均衡点では、状況は安定する。均衡点以外では、状況が不安定になる。ゆえに、均衡点以外のところに位置していると、均衡点に近づく力が働く。だから、いったん均衡点からはずれても、ひとりでに均衡点に戻っていく。つまり、放置すれば、自然に均衡点に達する。その均衡点が、最適の状況を意味する。
 これが、古典派の主張する「神の見えざる手」の正体だ。
 
 需給曲線というモデルを、評価してみよう。このモデルは、原則としては、間違っていない。問題は、常に成立するかどうかだ。つまり、原則からはずれることがあるかどうかだ。
 古典派は需給曲線について、「常に成立する」と考えた。しかるに現実には、「成立しない」という状況もある。つまり、均衡でない状況がある。つまり、不均衡の状況がある。それは「供給過剰・需要不足」という状況だ。換言すれば、「需給ギャップ」が発生している状況だ。
 古典派の主張によれば、「需給ギャップが発生したら、そのあとひとりでに需給ギャップは縮小する」となるはずだ。しかし、そうならないこともある。不況のときには、需給ギャップのある状態は、数年ないし十数年も続く。つまり、「放置すれば解決する」のではなくて、「放置しても解決しない」のだ。
 現実を見る限り、「需給曲線」というモデルは正しくない、とわかる。そこで本書は、「需給曲線」というモデルのかわりに、新しいモデルを提出する。このモデルは、不均衡を説明するモデルだ。これを「トリオモデル」と呼ぶ。図を参照。
 
[ 第2図(トリオモデル の図)] 
 

 
 トリオモデルは、左側の図の場合と、右側の図の場合との、二つの場合がある。(二つの図を並べて書いてある。)
 二つの図をよく見よう。ここには、需給曲線のモデルにはないような、第三のものがある。それは水平線だ。この水平線を、「下限直線」と呼ぶ。──結局、トリオモデルには、「需要曲線」と「供給曲線」と「水平線」という、三つの要素があるわけだ。(三つあるから、「トリオ」という語を用いる。)
 トリオモデルには、「下限直線」がある。すると、どうなるか? これによって、「不均衡」という現象が本質的に説明されるのだ。次に示そう。
 
 左側の図(A型)は、均衡状態を示す。均衡点は、水平線よりも上方にある。この場合、下限直線は何の働きもしない。
 右側の図(∀型)は、不均衡状態を示す。均衡点は、下限直線よりも下方にある。この場合、下限直線は重大な働きをする。
 今、最初に、左側の図の状態にあったとしよう。この時点では、均衡点において、均衡が実現している。そのあとで、左側の図から、右側の図へと、変化したとしよう。つまり、水平線の上方から、水平線の下方へと、均衡点が移動したとしよう。それにともなって、現在点は、均衡点へ近づこうとする。ところが、近づこうとしても、下限直線に阻止されるせいで、均衡点に近づけない。つまり、均衡は実現しない。かくて、不均衡となる。
 こうして、「下限直線があるせいで、不均衡になる」ということが、モデル的に説明されるわけだ。
( ※ より詳しい話は後述する。)
 
◇修正ケインズモデル   
 
 新しい経済学のモデルは二つある。そのうち、残る一方は「修正ケインズモデル」である。これについて解説しよう。
 このモデルの原型となるのは、ケインズの「45度線モデル」というモデルだ。このモデルを修正して拡張することで、「修正ケインズモデル」という新たなモデルができる。
 修正ケインズモデルとは、どういうモデルか? その具体的な話は、ここでは紹介しない。というのは、原型となった45度線モデルも、原型を拡張してできた修正ケインズモデルも、ちょっと複雑すぎるからだ。短い文章ではとうてい説明しきれない。(「需給曲線」ならば簡単に説明できたが。)
 ついでに言うと、もう一つ理由がある。45度線モデルは、もともと紹介する価値がないのである。なぜなら、それは間違ったモデルであるからだ。間違ったものをいったん覚えてから捨てるよりは、最初から間違っていないものを覚えるべきだ。
 だからここでは、「45度線モデル」も、「修正ケインズモデル」も、紹介することはない。しかし次のことは重要なので、理解しておくといいだろう。
 修正ケインズモデルを使うと、マクロ経済学の核心がわかる。それは、「スパイラル」という現象だ。デフレスパイラルやインフレスパイラルがあるが、これらの経済現象がどういうふうにして起こるかを、修正ケインズモデルは理論的に説明する。そして、それは、従来の経済学にはできなかったことなのだ。つまり、修正ケインズモデルは、従来の経済学には届かなかった核心を、見事に解き明かすのだ。
 
◇モデルの意義   
 
 本書では、新しいモデルが提示される。次の二つである。
   ・ ミクロ経済の分野で …… トリオモデル
   ・ マクロ経済の分野で …… 修正ケインズモデル
 では、何のために、新しいモデルを提出するのか? その質問に、普通の学者は、こう答えるだろう。
 「モデルを提出するのは、理論体系を築くためである。モデルを原理としてから、その上に理論を展開して、厳密な体系を築くのだ」
 なるほど、そうすれば、演繹的な体系を得ることができる。しかし、われわれが欲しいのは、演繹的な体系なんかではなくて、この世界の真実なのだ。
 演繹的な体系というのは、論理遊びのようなものである。数式や論理をいじくることによって、たくさんの定理を得ることができる。たとえば道具として、複素数の微積分やら、高次元の数学空間やら、カオス理論やら、フラクタル理論やら、さまざまな高度な技法を駆使することで、多くの結論を得ることができる。しかし、そうして得た結論が、現実世界の真実に合致するという保証はない。
 演繹的な操作など、いくらやっても、論理のお遊びのようなものだ。なぜなら、「最初の原理は真実だ」という保証がないからだ。最初の原理が真実でなければ、そのあとでいくら演繹的な体系を築いても、すべては砂上の楼閣となってしまう。──にもかかわらず、従来の経済学者は、空疎な論理ごっこをやっている。現実を離れて、数式や統計数字をいじくることで、真実に近づくことができると思い込んでいる。
 本書もまた、新しいモデルを提出する。では、本書の方法は? それは、従来の経済学の方法と、どう異なるのか? この質問に、簡単に答えよう。──本書で示すモデルは、代数的に数値を示すモデルではなく、幾何学的に位相(位置関係)を示すモデルなのだ。
 従来のモデルは、現象を精確に示そうとする。しかし本書のモデルは、現象を精確に示そうとするかわりに、別のことを示そうとする。この発想を示すために、ケインズの言葉を引用しよう。
    「精確に間違うよりは、おおまかに正しい方がいい」
    ( I'd rather be vaguely right than precisely wrong.
 ケインズはこう言った。本書もまた同じ立場を取る。具体的な話は、次項で述べる。
 
◇均衡と不均衡   
 
 経済学の核心を示そう。それはまた、本書全体の核心でもある。
 「均衡/不均衡」
 この区別が核心だ。これは、量的な違いではなく、質的な違いである。──ここに、経済学の本質がある。
 「均衡」というのは、「神の見えざる手」を成立させるための、前提である。この前提が成立すれば、「神の見えざる手」も成立する。逆に、この前提が成立しなければ、「神の見えざる手」も成立しない。
 ところが、従来の経済学は、この前提について考慮しなかったのだ。というわけで、根本的な勘違いをするようになった。では、根本的な勘違いとは? それは、次のことだ。
 「良いことをすれば、状況は良くなるはずだ」
 これは、次の形で言われることもある。
 「各人が良く働けば、国民全体の生活は良くなるはずだ」
 従来の経済学者の多くは、これを信じる。また、ほとんどの一般人も、これを信じる。しかし、現実にはどうか? 不況のとき、各人は真面目にせっせと働いたが、生活は苦しくなるばかりだった。「働けど働けど なおわが暮らし 楽にならざり」である。ここでは、各人がどんなによく働いても、状況は少しも良くならなかったのだ。(不況の原因は、各人にあるのではなく、政府にあるからだ。)
 「良いことをすれば、状況は良くなる」
 ということは、「均衡」の場合には成立する。しかし、「不均衡」の場合には、成立しない。──それこそが、経済学の核心なのだ。
 普通の経済状況であれば、「均衡」が成立する。ここでは、各人が自己の利益をめざすと、全体の状況も最適化する。──それは、「神の見えざる手」という原理だ。
 一方、不況という状況であれば、「不均衡」が成立する。ここでは、各人が自己の利益をめざすと、全体の状況は改善されるどころか悪化する。──それは、「神の見えざる手」とは反対の原理であり、「悪魔の見えざる手」という原理だ。
 結局、こうだ。各人がエゴイズムで行動すると、良き結果をもたらすこともあるし、悪しき結果をもたらすこともある。結果がどうなるかは、状況しだいなのだ。
 とすれば、「均衡」を前提とするべきではない。むしろ、現在の状況が「均衡」と「不均衡」のどちらであるかを知るべきだ。
 従来の経済学は、そうではなかった。古典派の経済学者は、「経済状況は原則として均衡である」ということを、あらかじめ前提にした。ケインズ派の経済学者は、「経済状況は原則として不均衡である」ということを、あらかじめ前提にした。いずれにせよ、あらかじめ前提を取って、その前提の上で、厳密な論理を築き上げた。──しかし、そんなことをいくらやっても、砂上の楼閣にすぎないのだ。
 では、どうするべきか? 「均衡」または「不均衡」をあらかじめ前提とするのを、やめるべきだ。かわりに、「均衡」と「不均衡」のどちらも起こるとわきまえた上で、現状がどちらであるかを見極めてから、「均衡」のときには「均衡」の理論を取り、「不均衡」のときには「不均衡」の理論を取るべきだ。
 そのためには、「均衡」と「不均衡」を統合しているような、新しい理論を構築することが必要だ。その新しい理論の骨格となるのが、「トリオモデル」と「修正ケインズモデル」だ。この二つのモデルは、何かを定量的に示すためにあるのではない。「均衡」と「不均衡」を定性的に区別して、両者の関係を知るためにある。つまり、経済学の核心を示すためにある。
( ※ より詳しい話は、以後の本論で述べる。ここまでは「概要」である。)

 
●第T章 問題と歴史   
 
◇序言   
 
 「概要」のあとで、いよいよ「本論」を始める。
 最初に、目的を示そう。本書の目的は、経済の真実を示すことであり、そのための新しい理論を提示することだ。
 そう述べると、実利主義者がせっつくかもしれない。「理論なんかは面倒だ。学術的な理論なんかどうでもいい。それより手っ取り早く、結論を教えてくれ。結局、何をどうすればいいんだ?」と。
 そういう態度は、せっかちすぎる。物事の本質を知らないまま、手法としての処方だけを知らされても、うまく使いこなせないものだ。──比喩的に言おう。せっかちな人が高熱を出した。「風邪だから、風邪薬をくれ」と医者に要求した。しかし本当は、風邪ではなくて、肺炎または結核かもしれない。なのに「風邪だ」と即断して、手っ取り早く風邪薬を飲んでも、病状を悪化させてしまうだけだ。──要するに、お手軽にやたらと処方を取っても、手に余る。素人に高級な道具を与えても、うまく使いこなせない。「豚に真珠」または「気違いに刃物」だ。
 ならば、どうすればいいか? 経済学をきちんと理解するべきだ。では、どういうふうに? 通常、知識を仕入れたいときには、百科事典や参考書を読むだろう。なるほど、物理学や化学や生物学なら、それでいいだろう。では、経済学では? やはり、百科事典や参考書を読めば、経済学がわかるだろうか? あるいは、新聞や雑誌の経済記事を読めば、経済学がわかるだろうか? ──残念ながら、そうならない。新聞を読んでも、エコノミストの意見を聞いても、経済学を知ることはできない。そんなことをしても、ただ一つの真実を得るかわりに、多様な相反する意見を得るだけだ。
 経済学者の意見は、あまりに多様である。ほとんど百家争鳴と言えるほどに。ある人は「Aが正解だ」と主張する。ある人は「Bが正解だ」と主張する。ある人は「Cが正解だ」と主張する。七人の経済学者が集まれば八つの意見が提出される、という皮肉もあるほどだ。となると、一般の人々は、どれを選ぶべきかわからなくなって、途方に暮れてしまうだろう。
 ここで、根源を考えよう。どうして、かくも多様な主張があるのか? 真実が多様だから、意見も多様なのか? 違う。物理学であれ、化学であれ、どの科学の分野でも、そこにある真実はたった一つだけだ。
 そうだ。真実は一つだが、誤解は無数にある。だからこそ経済学には、さまざまな意見があるのだ。さまざまな誤解として。
 逆に言えば、こうだ。さまざまな意見があるときには、そのうちのどれか一つだけが真実なのではない。すべてが誤解であって、真実は一つとしてないのだ。なぜなら、一つでも正解が含まれていたならば、十分な時間を経たあとでは、多くの意見がその一つの意見に収束したはずだからだ。──かくて、さまざまな意見がいつまでも並存するということは、真実は一つもないということを意味する。
 そうだ。意見が多いほど、真実が見つかりやすいのではない。意見が多いほど、真実は見出されないのだ。どんなにたくさんの意見があっても、玉石混淆ではなくて、屑の山にすぎず、そこに真実は一つも存在していないはずなのだ。とすれば、真実へ近づくための第一歩は、「すべては間違っている」と判断することだ。
 そして、すべてが間違っているとき、そこには一つだけ、真実が見出されるはずだ。「すべては間違っている」という真実が。そのことを知ったあとでようやく、新たな一歩を取ることができる。
 ソクラテスは、「無知の知」を唱えた。自分がまったくの無知であるとしても、自分が無知であることを知ることはできる、と。それこそ、われわれにとって、真実へ近づくための第一歩なのだ。
 
 われわれは「無知の知」を知った。では、そのあとで、どうすればいいか? 具体的には、どんなことをすればいいのか?
 まずは、既存の知識を知るべきだ。その上で、既存の知識の限界を知るべきだ。そうだ。限界を知れば、限界を乗り越えて、その先へ進むことができるだろう。
 では、限界とは? もちろん、現在の経済学には、さまざまな問題が山のように累積している。ここにも、そこにも、あそこにも、たくさんの問題がある。とはいえ、たくさんある問題の奥には、一つの原理がある。それは、「神の見えざる手」という原理だ。これこそが、経済学の問題の核心となる。
 ではなぜ、これが核心となるのか? 答えるのは、たやすくはない。「これが核心です」と示すのは簡単だが、「これが核心である理由はこの通りです」と説明するには大量の言葉を要する。というわけで、今ここでは、説明は省略する。
 かわりに、このあとは、歴史を見ることにしよう。経済学には、歴史がある。それは人類による、多大な試行錯誤の過程だ。多大な試行錯誤が、歴史上においてなされた。それでもついぞ真実は見出されなかったが、だとしても、真実に接近することができた。とすれば、多大な試行錯誤の過程を見るために、歴史を調べることは大切だ。
 ただし注意しておこう。以後では、歴史を見るが、目的は歴史的な知識を得ることではない。多大な試行錯誤の跡を調べるのは、そこに真実の跡を見出すためではなくて、そこに誤りの跡を見出すためだ。先人たちはしょせん、真実には到達できなかった。とすれば、その道を通っても、真実に到達できることはない。しかし、その道が誤りだと知っていれば、「その道を通っても真実には到達できない」とわかる。──というわけで、先人の業績は、決して無益ではないのだ。先人が誤りをなしたからこそ、後世の人間は同じ誤りをなさずに済むからだ。
 登山にたとえて言おう。未踏の山頂をめざして登る。山頂にはうまく到達しがたい。しかし、先人があらかじめ試行錯誤をして、「この道は駄目だ」という失敗の跡を残しておいてくれれば、われわれは同じ失敗を免れることができる。
 そうだ。誤りは無意味ではない。誤りは真実への道標だ。経済学の歴史には、おびただしい試行錯誤の残骸がある。そこには、玉石混淆ふうに、部分的な真実と部分的な虚偽とが、ごちゃまぜになっている。そういう大量の残骸をいろいろと調べていけば、真実そのものをつかむことはできなくても、残骸の底にひそむ真実をおぼろげに窺えるようになるだろう。
 というわけで、このあとでは、経済学の歴史を見ていくことにしよう。
 
■T・1 歴史の流れ   
 
 経済学について、歴史を見ていこう。さまざまな学説を理論的に調べる前に、さまざまな学説を歴史的に眺めるわけだ。
 歴史的な話となると、初心者向けのように思えるかもしれない。読者が専門家ならば、「だったら読む必要はないな」と思うかもしれない。しかし、専門家であっても、しっかり読んでほしい。なぜなら、以後の話は、ただの教科書的な話ではないからだ。つまり、「経済学では何が正しいか」を示そうとしているのではなく、「経済学では何が正しくないか」を示そうとしているのだ。
 このあとでは歴史を調べるが、それは、知識を得るためではなくて、知識を得ていないことを知るためなのだ。
 
◇学派の二分類   
 
 経済学の全体をざっと見渡すと、すぐにこうわかる。
 「経済学の立場は、二つに大別される」
 現在の経済学には、多種多様な立場がある。細分すれば百以上があるように見える。しかし大別すれば、二つに分類されるのだ。次の二つだ。
   ・ 古典派
   ・ ケインズ派
 この二つに区別する分類がある。では、この分類は、何のための分類か? ただの整理のための分類なのか? いや、そんなことはない。便宜的になした、分類のための分類ではない。この分類の奥には、根源的な区別があるのだ。
 「『神の見えざる手』を基本原理とするか」
 この質問に、どう答えるか? 「イエス」と答えるのが古典派であり、「ノー」と答えるのがケインズ派である。
 ここには、「神の見えざる手」という概念がある。(あとでは、「悪魔の見えざる手」という概念も現れる。)ただし、注意してほしい。こういう宗教的な言葉を使うのは、面白半分の文学趣味でやっているのではない。
 「神の見えざる手」という原理に対して、これを絶対視する立場がある。それは古典派だ。そして、現在の経済学の主流は、古典派なのだ。だから、「神の見えざる手は正しいか?」という質問は、「現在の経済学は正しいか?」という質問と等価である。
 かくて、この問題は、学問全体を揺るがすほどの、非常に大きな問題となるのだ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   現在の経済学は、「古典派」と「ケインズ派」とに、二分される。
   前者は、「神の見えざる手」を絶対視する。こちらが主流だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇学派の細分   
 
 経済学の学派は、二つに大別される。とはいえ、もっと細かく分類することもできる。実際、百科事典などを見れば、細かな学派の分類がいろいろと列挙されている。
 しかし本書では、細かな分類はあまり重視しない。なぜか? 細かな分類を生じさせる違いは、根源的な違いではなくて、手法の違いでしかないからだ。
 基本的な発想は一通りでも、手法によって多様に分類することは可能だ。人が百人いれば、手法も百通りあるだろうから、百通りの分類が可能だろう。しかし、手法はあくまで手法であって、本質ではない。大切なのは、手法ではなく、基本的な発想なのだ。
 では、基本的な発想とは? 次の二通りだ。
   ・ 「神の見えざる手」を絶対視する   …… 古典派
   ・ 「神の見えざる手」を絶対視しない …… ケインズ派
 かくて、前項で述べたように、二つに大別されるわけだ。この二つの大別が肝心である。このことを強調しておく。
 
 [ 補足 ]
 次項からは、古典派とケインズ派について、項目を立てて説明する。ただしその前に、用語の解説をしておこう。というのは、用語の混乱をもたらす事情があるからだ。
 @ 古典派
 「古典派」という用語は、二通りの意味で解釈される。
 一つは、「神の見えざる手」を絶対視する学派のことだ。これは大分類である。
 一方、「古典派」をさらに、「初期の古典派」と「新古典派」とに区別することもある。そして「初期の古典派」を、単に「古典派」と呼ぶこともある。(「新古典派」に対して)
 つまり、「古典派」という用語は、「初期の古典派」と「新古典派」をひっくるめて意味することもあり、「初期の古典派」だけを意味することもある。若干まぎらわしい。
 では、本書では? 「初期の古典派」と「新古典派」をひっくるめて、「古典派」と呼ぶことにする。「初期の古典派」は、いちいち「初期の古典派」と呼ぶことにする。
 A 古典派の諸派
 古典派のなかには、いくつかの学派がある。典型的な古典派は、「サプライサイド」である。その他、「マネタリスト」や「不完全市場派」などもある。これらの学派はいろいろと違いがある。(詳しい話は後述する。)
 ただしこれらは、どれもが「神の見えざる手」を基本原理としている。その意味で、これらはいずれも「古典派」に属する。
 B ケインズ派
 ケインズ派は、ほぼ一種類だけある。そう考えていいだろう。基本的には、ケインズ一人が理論のすべてを提出しており、以後のほとんどは亜流にすぎない。ケインズ一人で代表させて差し支えない。
 実は、学問の世界では、「ケインズの理論を発展させた」と称する学者も多い。しかし実際には、ケインズの理論を発展させたというよりは、ケインズの理論を歪めただけである。そのほとんどは無視していいだろう。それが本書の判断だ。
( ※ なお、「新ケインズ派」と呼ばれる学派もある。しかしこの学派は、ケインズの子孫というよりは、古典派の子孫である。この件は、話が面倒になるので、後述する。)
( ※ ついでに、訳語の話をしよう。「ケインズ派」の原語は Keynesian である。その訳語には、「ケインジアン」「ケインズ学派」などもある。なぜか? 「派」という同一概念に対して、英語で -ists-iansschool という複数の語があり、これらを直訳しようとするせいだ。とはいえ、訳語はあまり気にしないでいいだろう。)
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   経済学には、前項のように、二つの分類(古典派/ケインズ派)がある。
   もっと細かく分類することも可能だが、今はまだ考慮しなくてよい。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇経済学の端緒   
 
 話を戻そう。経済学の学派は、大きく二つに分類される。こうして分類された二つの、それぞれについて、考察していくことにしよう。
 まずは、歴史における最初の点から、考察を始めよう。そもそも経済学は、歴史的にはどこから始まるか? 
 はるか昔、貨幣というものが初めて生まれたばかりのころも、経済的な観念はあっただろう。しかし、「学問としての経済学」が生じたのは、近代になってからだ。その端緒となるのは、アダム・スミスの「国富論」である。(一七七六年)
 アダム・スミスは、「市場原理と自由放任で、経済は最適化される」と唱えた。それを比喩的に示すために、「見えざる手」 invisible hand という用語を用いた。
 これが経済学の端緒である。「見えざる手」(神の見えざる手)という概念は、アダム・スミス以来、今日までずっと広く信じられてきた。今日でも古典派の経済学者は、これを経済学の原理と見なしている。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   経済学の端緒は、アダム・スミスの「神の見えざる手」という概念だ。
   その概念は今日でも、古典派経済学の基礎となっている。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇古典派の発展   
 
 アダム・スミスが登場したのは、十八世紀の後半だった。そのあと、十九世紀半ばまでの間に、経済学者がいろいろと登場した。リカード、ミル、セイなど。彼らは、経済学の基礎となる理論を、それぞれ構築していった。おおむね、「コストによって価格が決まる」というような理論である。──ここまでは、「初期の古典派」に分類される。
 十九世紀後半になると、新たな経済学が登場した。ワルラス、マーシャル、フィッシャーなどだ。彼らはいっそう学問らしい理論を構築していった。おおむね、「市場において価格が決まる」というような説である。──彼らは「新古典派」と称される。つまり、それ以前の古典派である「初期の古典派」とは区別される。なぜか? 彼らの主張する内容はさして画期的ではなかったが、彼らの採用した方法がかなり画期的だったからだ。すなわち、数学的な方法を取ったのだ。このことで、経済学はいかにも科学らしくなった。
 というわけで、高度な数式をたくさん駆使する新古典派は、新たな学問段階に達した、と思える。少なくとも、論文を見る限りはそうだ。──とはいえ、その本質は、「神の見えざる手」という単純な原理を、面倒な数式で複雑に書いただけのことだ。
 というわけで、複雑な数式の表面を引っぱがして、本質を見れば、新古典派も、初期の古典派も、「神の見えざる手」を信じる古典派の仲間である。両者は手法的には大きく異なっているが、基本とする原理は同じなので、どちらも「古典派」と見なしていいだろう。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   初期の古典派が登場したあとで、科学的な新古典派が登場した。
   「神の見えざる手」を原理とするゆえ、どちらも「古典派」である。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇古典派の自己否定   
 
 歴史的に、「初期の古典派」から「新古典派」へという発展があった。それにともなって、経済学は学問としての内容をいっそう豊かにしていった。新たな概念を提出したり、数式で緻密に論理を構築したり。……では、そういうふうに理論を精密化することで、経済学は学問的に完成されていったか?
 古典派経済学者は、「イエス」と信じた。厳密な数式を用いれば、学問全体が厳密になるから、学問は真実に近づくはずだ、と。
 その確信は、まったくの間違いというわけではない。少なくとも、「ミクロ経済学」と呼ばれる分野では、「まさしくその通り」と判定していいだろう。
 今日では、ミクロ経済学は、一つの完成した学問分野であると見なされいる。そこでは、高度な数学が駆使されることで、さまざまな知識が蓄積された。そこでは、多数の学者たちの意見が一致していたし、また、理論と現実とが合致することがかなり実証された。そういうわけで、ミクロ経済学の理論は、まさしく真実であると呼んでよさそうだった。
 かくて、古典派経済学は見事に成功を収めた。すなわち、最初に素朴に示されただけの「神の見えざる手」という概念は、古典派経済学によって厳密な学問に仕立て直されたのだ。こうして古典派経済学者は、「経済学の勝利」を宣言した。──少なくとも、ミクロ経済学の分野では。
 
 とはいえ、それは、矛盾に満ちた勝利であった。なぜか? その理由は、こうだ。
 古典派経済学の結論は、「神の見えざる手」である。つまり、「市場原理と自由放任による最適化」である。とすれば、市場原理さえあれば、経済学者は何もする必要がないわけだ。とすれば、経済学も経済学者も不要だ、ということになる。結局、経済学は、「経済学は不要である」と、自ら証明したことになる。
 これは矛盾に満ちた勝利である。そのことを理解するには、同じ事情を他の学問になぞらえるといい。次のように。
   ・ 「数学は不要である」と、数学は自ら証明した。
   ・ 「医学は不要である」と、医学は自ら証明した。
   ・ 「物理学は不要である」と、物理学は自ら証明した。
 具体的に示そう。医学的な小話だ。──病気になった人がいる。彼は病院へ行って、「治療をしてください」と頼んだ。すると、医者はこう答える。「治療は不要です。自然治癒に任せなさい」と。「なぜ?」と質問すると、医者はこう答える。「医学はまったく無用なのです。そのことを医学は自ら証明したのです。病気のときは、医者にかかったりしないで、何もしないのが最善です。何もしないで、すべてを神の手に委ねなさい。それが最善です」と。
 これではまるで、未開社会の呪術師だ。病気になると、薬草や飲物を与えるかわりに、「神様、神様」と唱えるだけだ。
 そして、現代の経済学においても、古典派は同様のことを主張する。不況という病気のさなかで、国民が「状況を良くするために、何とかしてほしい」と頼むと、「何もしない方がいい。すべては神の手に委ねなさい」と答えて、治療を否定する。
 古典派は、厳密な理論体系を構築したとき、同時に、自らが不要であるということを論証してしまったのだ。これでは、自己否定も同然だ。
( ※ なお、かろうじて言い逃れる立場もある。「原理は成立するが、原理がうまく働いていない」というふうに。この件は、後述する。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   古典派は、「神の見えざる手」を理論化し、同時に、自己否定に陥った。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇古典派の限界   
 
 古典派の主張は、自己否定に相当する。それはもちろん、経済学者にとっては困ったことだった。経済学が不要ならば、経済学者はみんな失業してしまうからだ。とはいえ、国民にとっては、困ったことではなかった。経済が自然に最適化されるなら、うるさい経済学者なんかいない方がいいからだ。(無料でサービスを受けることができるようなものだ。)
 で、実際は? 「神の見えざる手」のおかげで、経済はうまく最適化していっただだろうか? 古典派経済学者は、「そうなるはずだ」と夢想した。しかしその夢想は粉々に砕かれた。
 現実は、古典派経済学者の夢想に反して、楽園のようにはならなかった。むしろ反対に、地獄のようになることすらあった。それがすなわち、「不況」である。
 「不況」という現象は、現実にある。そのことは二重の意味で、古典派の主張を否定した。
   ・ 最適ではない経済状態が、まさしく存在すること。
   ・ 経済状態は、好転するどころか、悪化することもあること。
 前者は、「プラス」に対する「マイナス」を意味する。(それが「不況」)
 後者は、「上向き」に対する「下向き」を意味する。(それが「景気悪化」)
 特に、後者が重要だ。「神の見えざる手」に委ねると、状況が良くなるどころか、かえって悪くなることもあるのだ。
 
 「不況」および「景気悪化」。この二つの現象があることは、古典派経済学をぐらつかせた。「神の見えざる手」という原理が正しければ、この二つの現象は、あってはならないはずなのだ。理論的にあってはならないことが、現実にある。理論と現実とが矛盾する。とすれば、古典派経済学の理論は間違っている、ということになる。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   古典派の理論は、現実とは矛盾する。「不況」と「景気悪化」ゆえに。
   これらの状況では、「神の見えざる手」という原理が成立しない。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇古典派の失敗   
 
 古典派の主張は、現実とは矛盾する。そういう事実がある。にもかかわらず、この事実を無視または軽視する経済学者が多い。いわば、自らの醜さを直視しようとしない、不美人のように。
 そこで、自惚れた不美人に鏡を突きつけるようにして、彼らの失敗の実例を指摘しよう。歴史には、該当する事件はいろいろある。ただし、小事件は別とすれば、大事件が二度あった。この二つを、順に示そう。
 
 一度目の大事件は、「世界大恐慌」だ。20世紀前半にあたる一九二九年、ニューヨークの株価大暴落をきっかけとして、米国で恐慌が発生した。これはまさしく古典派経済学の敗北を意味した。
 なぜか? これ以前なら、かろうじて弁解が可能だった。「古典派の主張は、たとえ百パーセント正しいとは言えないまでも、おおまかには正しいはずだ」と。しかるに、世界大恐慌のときには、この弁解がまったく不可能となった。なぜなら、古典派の処方に従うと、状況は、改善しなかったというよりは、むしろ悪化していったからだ。
 たとえば、こういう処方があった。
 「財政を均衡させよ。財政を健全化すれば、経済も健全化するはずだ」
 この処方に従って、政府は財政再建をめざした。つまり、歳出削減と歳入増加のために、公共事業を削減して、増税を実施した。その結果は? 不況は、解決されるどころか、悪化していった。
 古典派の処方は、「効果が不十分だった」のではなく、「逆効果があった」のだ。薬になるどころか、毒になったのだ。これが第1の大事件だ。
 
 二度目は、一九九〇年代の日本の不況だ。これは、世界規模の不況ではなくて、日本に限られた不況ではあったが、古典派経済学の限界という意味では、いっそう深刻だった。
 一九九〇年代は、二十世紀の最後である。この時点では、経済学は未熟ではなく、かなり発達していた。古典派は経済学のなかで、主流派たる勢力となっていた。「自分たち古典派は正しい」と経済学者たちは自惚れていた。なのに、その鼻高々な自惚れが、現実にぶつかって、すっかり打ち砕かれたのだ。
 細かく見よう。古典派は、それぞれの流派ごとに、次のような処方を出した。
   ・ 財政を均衡させよ
   ・ 生産性を向上させよ
   ・ 市場原理を貫徹させよ
   ・ 金融政策で景気調節せよ
 それぞれの処方の結果は、どうだったか? 
 一番目の処方は、世界大恐慌のときと同じ処方である。当然、同じ轍を踏んで、大失敗に終わった。つまり、益でなく害があった。
 二番目と、三番目と、四番目もあったが、これらも無効だった。これらはいずれも、「神の見えざる手」ゆえの「均衡」を前提としたが、「均衡」は現実には成立しなかった。まず商品市場で、需給が均衡しなくなった。やがて労働市場でも、需給が均衡しなくなった。(失業の発生。)ぐずぐずしているうちに、金融市場でも、需給が均衡しなくなった。(流動性の罠。)──結局、商品市場と金融市場と労働市場の、三つの市場のいずれでも、需給が均衡しなくなった。
 かくて、古典派の前提は成立しなくなった。「神の見えざる手ゆえに、市場の需給はひとりでに均衡する」といくら主張しても、現実の経済は、その主張とは正反対の状況になったのだ。そしてまた、古典派の処方に従っても、状況は改善されなかったのだ。
 古典派の主張は、現実によって打ち砕かれた。世間の人々は、経済学に「無力」とレッテルを貼った。正常に機能しない不完全な製品に、「欠陥品」というレッテルが貼られるように、経済学のおでこには、「欠陥品」というレッテルが貼られたのだ。(ただし、厚顔無恥の経済学者は、おでこに何が貼られているかを自覚できない。いわば、鏡を見ない不美人のようなものだ。彼らはおのれの欠陥を自覚できない。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   古典派経済学には、明白な失敗の事例が、歴史的に二つあった。
   一九二九年以降の世界大恐慌と、一九九〇年代の日本の不況だ。
   この二つの失敗が、古典派経済学の主張の欠陥を、明らかにした。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇ケインズの登場   
 
 古典派の限界が明らかになったあとで、その限界を突き破ろうとする努力もなされた。
 世界大恐慌のあとの一九三〇年代には、不況のさなかで、古典派経済学はほとんどなすすべがなかった。このころ、学問の世界で、新たな試みがいろいろと企てられた。そしてついに、ケインズの説が登場した。
 ケインズは、何をなしたか? その理論内容については、あとで説明することにして、まずは歴史的に、位置づけをしておこう。
 ケインズは、「神の見えざる手」という概念に代えて、別の原理を提出した。ここでは、「神の見えざる手」とは反対の概念を示した(つまり本書のように「悪魔の見えざる手」という概念を提出した)わけではない。「神の見えざる手」という概念では説明しきれない範囲について、まったく新たな概念を提出したのだ。そこにケインズの歴史的な意義がある。
 では、まったく新たな概念とは? それは「マクロ」という概念だ。この新しい概念のもとで、ケインズは新しい学問分野を開拓した。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   古典派の限界が判明したあと、二十世紀前半に、ケインズが登場した。
   彼は「マクロ」という概念を提出して、新たな経済学の分野を開拓した。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇ケインズの発想(ミクロとマクロ)   
 
 ケインズは「マクロ」という新しい概念を提出した。ただし、「マクロ」という新しい概念によって、既存の経済学を拡張したのではない。逆である。「マクロ」という概念を提出したとき、同時に、「ミクロ」という概念を提出した。そして、既存の経済学を、「ミクロ」という分野に封じ込めたのだ。
 古典派経済学者はずっと自惚れていた。自らが神の代弁者となったかのように、「自分たちは全知全能だ」と思い込んで、自分たちの学説であらゆる経済現象を説明しきれるつもりになっていた。
 ところがケインズは、古典派の自惚れを否定した。ケインズによれば、経済学は、「ミクロ/マクロ」というふうに二つの分野に区別される。そして、古典派の経済学が扱えるのは「ミクロ」の分野に限定されるのだ。
 一方、「ミクロ」ではない分野として、「マクロ」という分野がある。これについては、古典派の学説は適用されない。そして、景気変動というものは、「マクロ」という分野に属する。だから古典派の学説は原理的に、景気変動を扱えない。要するに、古典派の発想には、根源的な限界があることになる。ただの力不足ではないのだ。
 
 ケインズは、「ミクロ/マクロ」という区別を示した。では、この両者は、どこで差が付くのか? 次のように、市場が異なるのだ。
   ・ ミクロ …… 部分市場
   ・ マクロ …… 全体市場
 説明しよう。
 「部分市場」とは、個別商品の市場のことだ。たとえば、枕の市場だ。同様に、時計の市場や、小麦の市場がある。こういう個別商品の市場が「部分市場」だ。そして、それを扱うのが、「ミクロ経済学」だ。
 「全体市場」とは、一国全体の市場のことだ。ここでは、枕や時計や小麦など、そういう個別商品は無視されて、国全体の全商品が注目される。その市場が「全体市場」だ。そして、それを扱うのが、「マクロ経済学」だ。
 
 ケインズはこのようにして、「ミクロ/マクロ」という区別をなした。
 では、そのことから、どんな成果が得られたか? もちろん、「マクロ経済学」という固有の分野では、固有の成果がいろいろと得られた。とはいえ、細かな話をすればキリがないので、ここでは言及しないでおこう。大事なのは、細かな事柄ではなくて、先に述べたことだ。つまり、「ミクロ/マクロ」という区別をなしたことだ。その区別によって、古典派の限界を明示した。そこにケインズの理論の、歴史的な意義がある。
 
 さて。歴史的な意義はともかく、もっと本質的に考えてみよう。ケインズは、ミクロとマクロとを区別したとき、両者の特徴をどう見出したか? それは、次のとおりだ。
   ・ ミクロ経済学 …… 資源の最適配分を扱う
   ・ マクロ経済学 …… 総生産の変動を扱う
 こういうふうに、特徴を見出した。その理由を、簡単に解説しよう。ミクロとマクロに分けて、@Aの順で説明する。
( ※ なお、「ミクロは部分市場を扱い、マクロは全体市場を扱う」という区別に留意のこと。)
( ※ ミクロにおける「資源」とは、生産のための原料や労働力などのこと。マクロにおける「総生産」とは、いわゆるGDPのことで、「生産量」とも言われる。)
 
 @ ミクロ経済学
 ミクロ経済学とは、部分市場を対象とする学問分野である。そこでは、資源の「最適配分が扱われる。では、なぜ?
 部分市場では、それぞれの個別商品について、需給曲線のモデルが成立する。その市場では、市場原理が成立する。商品をあまり必要としない需要者は、市場価格が高くなると、市場から脱落する。商品を高コストで生産する供給者は、市場価格が低くなると、市場から脱落する。かくて、市場に残るのは、最適の需要者たちと最適の供給者たちである。彼らの間で、取引が成立する。こうして自然に「最適配分」がなされる。
( ※ これは、古典派の主張するとおり。いわゆる「優勝劣敗」の原理だ。ここでは、「需給曲線のモデルが成立する」という前提が満たされている。)
 
 A マクロ経済学
 マクロとは、全体市場を対象とする学問分野である。そこでは、総生産の変動が扱われる。では、なぜ?
 全体市場では、個別商品は存在しない。平均的な商品は存在しないし、平均的な価格も存在しない。(物価上昇率というのはあるが、これは価格ではなくて指数だから関係ない。)その市場では、「需給曲線」というモデルは(そのままの形では)成立しない。となると、古典派の主張するようにはならない。では、どうなるか? 
 それは一言では言えない。ケインズは、独自のモデルを提出して、マクロ経済学の理論を構築した。その巨大な理論を、簡単に説明することはできない。ただし、要点の一つを、簡単に言おう。こう言える。
 「商品の需給が均衡したからといって、完全雇用が達成されるとは限らない」
 このことを、別の形に言い換えれば、こう言える。
 「商品市場において需給の均衡する生産量と、労働市場において需給の均衡する生産量とは、同じではない」
 次項では、この結論が出るまでの過程を説明しよう。それはまた、マクロ経済学の核心を説明するということでもある。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   ケインズは、「ミクロ/マクロ」という区別をした。
   ミクロ経済学は、部分市場において、資源の最適配分を扱う。
   マクロ経済学は、全体市場において、総生産の変動を扱う。
   古典派の主張は、ミクロの範囲に限定され、マクロの範囲には及ばない。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇ケインズの成果(マクロ)   
 
 マクロ経済学は「総生産の変動」を扱う。ここに、マクロ経済学の核心がある。このことをもっとよく説明しよう。
 経済とは何か? こう問われたとき、古典派とケインズ派とでは、根源的な立場の違いが生じる。
 古典派にとって、経済とは「金」の問題である。金銭的な損得がすべてだ。企業が健全に経営して黒字を出しているなら、それでいい。
 ケインズにとって、経済とは、「人間」の問題だ。金のために人間がいるのではなく、人間のために金がある。企業を儲けさせるために人間がいるのではなく、人間を幸福にするために企業がある。たとえ企業経営が健全でも、人々が失業しているなら、駄目だ。
 こういう違いが根本にある。この違いゆえに、別の違いが出る。不況に直面したとき、どう対処すべきか? この問題に、古典派とケインズは、それぞれ逆の対処を示す。次のように。
 古典派は、こう主張する。──不況のときには、企業経営の健全化が大切だ。そのためには、企業は労働者を解雇するべきである。その結果、企業経営が健全化するはずだ。一方で、大量の失業者が発生する。しかし、どんなに大量の失業者が発生しても、企業経営さえ健全化すれば、それでいい。つまり、「縮小均衡」は善である。その状況は、最善ではなくとも、次善である。ゆえに、そこをめざすべきだ。
 ケインズは、こう主張する。──不況のときには、失業の解決こそ大切だ。たとえ企業経営が健全化しても、大量の失業者が発生するのならば、そういう変化は好ましくない。つまり、「縮小均衡」は悪である。ゆえに、そこをめざすべきではなく、そこからなるべく離れるべきだ。
 ケインズは、こう主張したとき、「総生産」という指標を導入した。そして、失業を解決するためには、「総生産」を増やすべきだ、と結論した。なぜか? ケインズのモデルによると、縮小均衡のときには、企業は黒字化しているが、失業者が大量に生じている。「商品市場における均衡点」の総生産は少ない値だが、「労働市場における均衡点」の総生産は多い値だ。だから、「商品市場」のみならず「労働市場」でも需給を均衡させるためには、「総生産」を拡大するしかない。ケインズはそう結論した。
 
 ケインズの発想は、まったく新しい発想だった。そこでは「総生産」というものが重視される。これは、古典派の発想とは大きく異なる。
 古典派の発想では、「総生産」というものは考慮されない。大切なのは「需給の均衡」だけだ。それぞれの商品で需給が均衡することによって、それぞれの商品の生産量も決まる。均衡かどうかだけに着目すべきであって、総生産などはいちいち考えなくてよい。
 また、失業問題も同様だ。失業というのは、労働力という商品が「供給過剰」になった状況である。とすれば、その労働力の価格である「賃金」が高すぎるのが原因だ。ゆえに、賃金を下げればよい。そうすれば、需給が均衡するので、失業は解決する。つまり、失業解決の処方は、「賃下げ」である。
 古典派の発想では、「労働力」はただの商品にすぎない。つまり、メイドや下僕の労働力のように、価格しだいで勝手に消費されるものにすぎない。その量は生産量に依存しない。一方、ケインズの発想では、「労働力」というのは生産に必要な資源である。その量は生産量に依存する。生産量が多ければ必要とされる労働力も多くなり、生産量が少なければ必要とされる労働力も少なくなる。つまり、失業の発生を決定する最大要因は、労働力の価格ではなく、生産量なのだ。
 こうしてケインズは、「生産量」つまり「総生産」というものを、非常に重要視した。そして、失業を解決するためには、「賃下げ」よりは、「総生産」の拡大が必要であると主張した。
 
 では、「総生産」の拡大のためには、どうすればいいか? それが問題だ。「賃下げ」をやると、総所得の低下を通じて、総需要が減ってしまうので、かえって総生産が減ってしまう。それでは逆効果だ。だから、「賃下げ」ではない方策に頼るべきだ。とはいえ、企業に任せるだけでは、企業は自己利益のために、どんどん「賃下げ」をするばかりだ。とすれば、企業に任せるだけでなく、国が何かをなすべきだ。
 こうしてケインズは、「国による総需要拡大」という方策を提案した。これが、いわゆるケインズ政策(公共投資の拡大)である。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   古典派は、「均衡」だけを重視し、「生産量の変動」を無視する。
   ケインズは、「均衡」だけでなく、「生産量の変動」を重視する。
   縮小均衡の状態では、均衡は成立するが、失業が発生する。
   ケインズは、生産量の拡大のために、政府による公共投資を提案した。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇ケインズの不完全さ   
 
 ケインズは「マクロ経済学」という分野を構築した。それは歴史的に大きな意義のあることだった。とはいえ、だからといってケインズの理論が全面的に正しいということにはならない。──つまり、ケインズの理論には、不完全さがある。では、どこがどう不完全なのか?
 この問題を考えるために、ケインズの業績を振り返ってみよう。ケインズの業績は、次の三つを示したことだ。
   ・ ミクロとマクロの区別
   ・ 生産量という概念
   ・ 生産量拡大の方法
 この三つを簡単に評価しよう。
 「ミクロとマクロの区別」は、先に述べたとおりだ。この件は、問題ない。
 「生産量という概念」も、先に述べたとおりだ。この件も、問題ない。
 「生産量拡大の方法」は、問題である。これは方法の問題だ。これについて、以下で説明しよう。(なお、「生産量」は「総生産」と同じ。)
 
 ケインズは「生産量の拡大」が重要であると結論した。そして、その方法として、「公共投資を」と提案した。つまり、「生産量を拡大するには、民間の需要でなく、政府の需要を拡大すればよい」と。──この方法に、不完全さが現れた。
 この不完全さは、今日では世間でも広く認識されている。たとえば、本四架橋や、諫早湾の干拓など、莫大な資金を投じながら、ほとんど無駄金になってしまっている。ろくに効果もなく、莫大な借金ばかりがふるらんでしまった。これではまるで、金を無駄遣いすることしか知らない、放蕩息子のようだ。常識的に言っても、「無駄でもいいから、とにかく浪費をせよ」なんていう主張は、まともな主張ではない。世間の人々は、直感的にそう理解する。
 ではなぜ、ケインズは「公共事業を」という処方を示したのか? その理由を探ろう。ケインズの言い分は、次の通りだ。
 基本として、「生産量の拡大」が必要である。では、「生産量の拡大」のためには、どうすればいいか? 不況のときには、「供給の拡大」をしても逆効果だから、「需要の拡大」だけが有効である。(ここまでは正しい。)
 「需要」とは、「消費」と「投資」のことである。「投資」とは、「民間投資」および「政府投資」のことである。これらのうち、「消費」と「民間投資」は制御できない量であり、残る「政府投資」だけが制御できる量である。だから、「需要の拡大」のためには、「政府投資」を増やせばよい。ケインズはそう結論した。(ここに難点がある。)
 さて。「政府投資」をするとしたら、どんなことをすればいいか? ケインズによれば、何でもいい。公共事業でも、戴冠式でも、軍備増強でも、何でもいい。あるいは、「穴を掘って埋める」というのでもいい。ただし、公共事業ならば、国民にとって有益だ。だから、公共事業が最も望ましい。
 こうして「公共事業を」という方法が示された。
 
 しかしケインズの主張には、不完全さがある。では、どんな? それは、「メリットだけを見て、デメリットを見ていない」ということだ。
 たとえて言おう。ドラ息子がいる。金をどんどん浪費する。高額なコレクションを購入して、そのツケをすべて親に回す。「何てことをしたんだ!」と親は怒る。しかしドラ息子は、釈明する。「コレクションを購入しても、品物はずっと残るから、無駄ではない。しかも、品物を売った人々には、利益を得るというメリットがある。社会にとっては、メリットがあるのだ」と。
 なるほど、社会にとってのメリットがあるというのは、正しい。ただし、社会にとってのメリットが生じたとき、同時に、自分にとってのデメリットも生じている。それは「莫大な借金をこさえた」ということだ。その事実を直視すべきだ。
 ケインズの主張は、メリットだけを見て、デメリットを見ない。無駄遣いをしたとき、売上げが増えたという半面だけを見て、同時に生じた借金という半面を見ない。あくまで、物事の半分を見るだけだ。そこにケインズの方法の不完全さがある。
 
 [ 補足 ]
 世間の人々は、このデメリットに気づく。しかしケインズ(およびケインズ派)は、このデメリットに気づかない。では、なぜ? ごく簡単に示せば、次のように説明できる。
 公共事業をすると、メリットとデメリットが同時に生じる。しかし不況の最中には、デメリットが発現しない(眠っている)のだ。そのせいで、あたかもデメリットが存在しないかのように感じられる。どんなに借金がふくらんでも、借金の返済を迫られないから、あたかも借金が存在しないかのように感じられる。
 しかしやがて、借金の返済を迫られる。では、いつ? 不況を脱出したあとだ。そのとき、「物価上昇」という形で、借金の返済を迫られる。しかし、そのときは、もはや不況を脱出しているから、「不況という問題は解決したよ」と主張して、「成功、成功」と平気でうそぶいていられるわけだ。
 ケインズの理屈は、「ドラ息子の屁理屈」と呼ぶにふさわしい。当然ながら、この処方に従うと、莫大な借金をこさえて、国家財政が破綻する。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   ケインズは、不況脱出のために、「公共投資」という処方を提案した。
   それはたしかに、「生産量の拡大」をもたらす。つまりメリットがある。
   しかし同時に、「借金の発生」をもたらす。つまりデメリットがある。
   ケインズの提案は、メリットだけを示して、デメリットを示していない。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇ケインズの限界   
 
 ケインズの処方には、デメリットがある。また、それとは別の事情もある。メリットがあるにしても、メリットには限界があるのだ。
 ここで、「限界がある」というのは、「無効である」という意味ではなくて、「有効である範囲が限定されている」という意味だ。では、どういう場合に有効で、どういう場合に有効でないのか?
 
 有効である場合を示そう。それは、次の場合だ。
 「途上国において、小規模な景気後退が起こった場合」
 ここで「途上国」という限定が付くのは、「公共事業が有益である」というのと同義である。社会資本が未整備な途上国ならば、公共事業によって社会資本を整備するのは有益である。
 また、「小規模な景気後退」という限定も付くが、この話はすぐあとの@で述べることにしよう。
 
 次に、無効である場合を示そう。それは、有効であるための二つの条件を満たさない場合だ。つまり、「途上国」および「小さな景気後退」という条件のどちらかを満たさない場合だ。二つのうち、「途上国」の方は、先進国では考慮しなくていい。そこで、「小さな景気後退」という方に着目しよう。
 「小さな景気後退」に当てはまらないという場合。それは、具体的には、どんな場合か? もちろん、次の二つの場合だ。
   ・ デフレ
   ・ インフレ
 この二つの場合には、ケインズの処方が無効になる。次の@Aで説明しよう。
 
 @ デフレ
 デフレというのは、大規模な不況という状況である。では、小規模な不況と大規模な不況では、どう違うか?
 具体的な数値を用いて、例を考えよう。国全体の生産量(GDP)が、五百兆円であるとする。小規模な不況では、需要不足が、五兆円(GDPの1%)。大規模な不況では、需要不足が、五十兆円(GDPの10%)。
 小規模な不況では、五兆円の需要不足を解消するには、総需要を五兆円だけ増やせばよい。それは簡単だ。政府が財政支出を五兆円増やせば、需要不足は解消する。かくて、ケインズの政策は成功する。(細かい話は省略するが。)
 大規模な不況では、五十兆円の需給ギャップを解決するには、総需要を五十兆円ほど増やせばよい。しかし、それは簡単ではない。政府が浪費すればいいといっても、五十兆円も浪費するのは困難だ。また、実際に政府が浪費しても、不況がうまく解決するわけではない。(理由は後述)……かくて、ケインズの処方は失敗する。
 かくて、小規模の不況と大規模の不況では、需要不足の規模の違いゆえに、需要不足という穴を埋めることについて「可能である/不可能である」という違いが生じる。というわけで、状況しだいで景気回復について「成功/失敗」という違いが生じる。
 この違いは、本質的にはどこから生じるか?   それは、皮肉なことに、「部分市場」と「全体市場」の違いを理解しないことから生じる。ケインズはたしかに、「総需要の拡大」をめざした。しかるに、「公共事業」という方針では、「全体市場における需要の拡大」はできず、「部分市場における需要の拡大」ができるだけだ。その「部分市場」とは、「公共事業のある産業」である。つまり「土木産業」である。
 たとえば、土木産業の市場規模が、十兆円であるとしよう。不況のときに、十兆円から七兆円へ、土木産業の市場規模が縮小したとしよう。ここに五兆円の公共事業を入れると、市場規模は十二兆円となる。そのくらいなら、かろうじて受け入れることもできるだろう。しかしここに、五十兆円の公共事業を入れても、もともと市場規模は十兆円しかないのだから、とうてい受け入れることはできない。──要するに、全体市場が縮小しているときに、特定の部分市場だけを拡大しようとしても、駄目なのだ。(たとえて言おう。クラスの全員が飢餓に瀕しているときに、誰か一人だけが飽食をしても、全員の飢餓は解決しないのだ。)
 ケインズの「公共事業」という処方には、そういう限界がある。
 
 A インフレ
 インフレの場合には、どうか? ケインズの処方は、ここでいっそう大きな限界にさらされる。
 ケインズの処方は、デフレの場合ならば、曲がりなりにも効果があった。つまり、「不況脱出」という目的に対して、その目的を完全には達成できないとしても、いくらかは効果があった。しかるに、デフレならぬインフレの場合には、ケインズの処方は効果がまったくゼロとなる。
 なぜか? 本質的に、当然である。ケインズの理論は、「不均衡」のための理論であるから、「均衡」の状態には適用されないのだ。というわけで、インフレのさなかでは、ケインズの理論では、有効な策を示せない。ただ手をこまぬいているしかない。
 それでも強引に、何かをすることもある。インフレのさなかで、あえて「公共事業」という措置を取ることもある。すると、どうなるか? 効果があるどころか、逆効果がある。これは「クラウディング・アウト」と呼ばれる現象だ。
 「インフレ」を「物価上昇」という意味で解釈しよう。すると、「物価上昇」と「失業」が両方ともある、という状況が考えられる。これは「スタグフレーション」と呼ばれる状況だ。この状況において、「失業を解決しよう」という狙いを取って、公共事業を増やしたとする。すると経済状況は、改善するどころか悪化してしまうのだ。(詳しくはすぐあとで述べる。)
 クラウディング・アウトという現象があるということ。それによって、ケインズの理論の限界がはっきりとあらわになった。ケインズの理論は、古典派の難点を指摘したとき、「真実の理論である」と思われたこともあったのだが、実は、そうではなかったのだ。ケインズの理論は、部分的な真実をつかむことはできたのかもしれないが、完全な真実の理論ではなかったのだ。なぜなら、完全な真実の理論であれば、正しい結論とは逆の結論を出すはずがないからだ。
 
 [ 補足 ]
 クラウディング・アウトについて、もう少し説明しておこう。(面倒な話なので、読まなくてもよい。)
 「不況」のさなかでは、需要不足となっている。この状況では、公共事業が増えると、需要が増えるので、総生産は拡大する。
 一方、「スタグフレーション」のさなかでは、そうはならない。ここでは、物価上昇があるのだから、需要不足となっていない。ここで、公共事業が増えると、どうなるか? 総需要は増えるか? いや、もともと需要不足ではないのだから、総需要は増えない。では、どうなるか? 総需要は、総供給(の能力)に制限されて、一定である。ここで、政府需要が増えれば、民間需要が減る。具体的に言えば、次のようになる。
 「政府投資の増加 → 財政支出の増加 → 国債の増発 → 金融市場で金利上昇 → 民間投資の減少」
 結局、「政府投資の増加」があれば、その分、「民間投資の減少」がある。差し引きして、総需要の増加はゼロだ。かくて、「失業の解決」はできない。メリットはない。
 一方で、デメリットがある。なぜなら、「政府投資の増加」があった分、「民間投資の減少」があるので、設備投資が減った分、供給能力の拡大ができなくなるからだ。そのせいで、将来の成長が阻害される。
( ※ たとえて言おう。人々が飢えている。ただしイモが少しある。人々は「イモを増やそう」と思う。では、どうすればいいか? イモをすべて消費しないで、そのうちの一部を、「投資」つまり「種イモ」にすればよい。こうすれば、今はイモが不足するが、来年は大幅にイモが取れる。これが正解だ。ところが、ケインズ派の経済学者は、逆のことを言う。「イモが足りないのは、イモの需要が少ないからだ。だから、需要を増やせばいい。そのためには、政府がイモを全部食ってしまえ」と。──この場合、今年のイモの全需要は同じだが、政府の取る量が増える分、人々の取る量は減る。また、種イモの分が食われてしまうので、来年以降のイモの量が減ってしまう。かくて、将来の成長が阻害される。)
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   ケインズの処方は、限界がある。特に、小さな景気後退以外のときに。
   大きな不況のときには、大規模な公共投資をしても、効果は少ない。
   インフレのときには、もともと需要不足でないので、効果はゼロだ。
   スタグフレーションのときには、効果どころか逆効果がある。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇マネタリズムの登場   
 
 ケインズの理論は壁にぶつかった。ケインズ派の経済学者は、右往左往した。そのさなかで、マネタリズムが登場した。ただし、注意しよう。マネタリズムの登場の仕方は、ケインズの登場の仕方とはかなり異なっていたのだ。
 ケインズは古典派に正面からぶつかる形を取った。しかるにマネタリズムは、ケインズや古典派に正面からぶつかる形は取らなかった。むしろ、脇からぶつかるような形を取った。
 古典派やケインズは、経済現象を考えるとき、商品市場を考察する。これは王道である。一方、マネタリズムは、商品市場よりも、金融市場を考察する。この際、商品市場を無視するわけではなく、「金融市場」から「商品市場」へという影響を考慮する。(直接的な効果でなく間接的な効果を見る。)
 対比的に示せば、次のようになる。
 古典派の処方は、「自由放任」である。つまり、商品市場において、政府が無為無策でいることだ。(別名「神の見えざる手」)
 ケインズの処方は、「公共事業」である。つまり、商品市場において、政府が需要の全体量を調節することだ。
 マネタリズムの処方は、「金融政策」である。つまり、商品市場でなく金融市場において、中央銀行が調整することだ。要するに、金融市場において資金の需給関係を調整し、そのことを通じて間接的に、商品市場における需給関係を調整する。
 マネタリズムは、商品市場においては、「神の見えざる手」に任せる。その意味で一応、古典派に属する。とはいえ、マネタリズムは、昔ながらの古典派とは違うところがある。それは、「生産量」(総生産)を考慮するということだ。その意味で、 マクロ的な視点があるわけだ。ケインズの発想をいくらか取り込んでいる。
 
 以上のことをまとめよう。マネタリズムの意義は、次の三点だ。
   ・ 商品市場でなく金融市場に着目する
   ・ 生産量を考慮する
   ・ 生産量の調節のために金融操作を用いる
 この三点について、さらに説明しよう。(マネタリズムの説明。)
 
 @ 商品市場でなく金融市場に着目する
 これは、マネタリズムの特質だ。もっと詳しい話は、Bで。
 
 A マクロ的な視点がある
 マネタリズムは、基本的には古典派だが、ケインズの発想を取り込んでいる。つまり、生産量(総生産)を重視する。そして、「景気変動を解決するには、生産量の変動をなくせばよい」と結論する。ここには、マクロ的な視点がある。その意味で、マネタリズムは、昔ながらの古典派とは大きく異なる。なぜなら、昔ながらの古典派には、マクロ的な視点がまったく欠けているからだ。(昔ながらの古典派は、量よりも質を重視する。この件は、次節で述べる。)
( ※ なお、このことから、マネタリズムを、「古典派とケインズの折衷」と見なす人もいるかもしれない。しかし、そう見なすべきではない。なぜなら、マクロ的な視点を取り入れるということは、現代経済学ではもはや当然のことだからだ。マネタリズムは、あくまで古典派であり、古典派が正常発展したものだ、と見なせるだろう。)
 
 B 生産量の調節のために金融操作を用いる
 マクロ的に考えれば、次のことは明らかだろう。
 「景気変動を解決するには、生産量の変動をなくせばよい」
 では、生産量の変動をなくすには、どうすればいいか? ケインズの発想では、「財政支出で」となる。しかるにマネタリズムの発想では、「金融操作で」となる。次のように。
   ・ 景気悪化のとき …… 利下げ
   ・ 景気過熱のとき …… 利上げ
 こういう操作(利下げ・利上げ)には、次の効果がある。
   ・ 利下げ → 民間投資の拡大 → 総需要の拡大 → 生産量の拡大
   ・ 利上げ → 民間投資の縮小 → 総需要の縮小 → 生産量の縮小
 つまり、金融操作をすることで、民間投資を調整し、総需要を調整し、生産量を調節することができる。かくて、景気変動をなくすことができる。それがマネタリズムの主張だ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   マネタリズムは、生産量に着目する。(マクロ的な視点がある。)
   商品市場の生産量を調整するためには、金融市場で金融操作をする。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇マネタリズムの成功   
 
 マネタリズムがどういうものか、前項で説明した。ではマネタリズムを、どう評価すべきか?
 経験的には、「マネタリズムはかなり成功した」と言えるだろう。景気後退のときには、利下げによって成功した。インフレのときには、利上げによって成功した。そういう例は、歴史上にたくさんある。だから経験的には、「かなり成功した」と言える。
 理論的には、どうだろうか? 古典派やケインズと比較してみよう。昔ながらの古典派に比べれば、無為無策に対して、金融政策を用いる分だけ、明らかに優位に立つ。また、ケインズに比べると、次の二点で優位に立つ。
 第1に、 インフレ対策。ケインズ理論は、インフレに無力であった。しかしマネタリズムは、インフレに有効であった。(大幅な物価上昇が起こっても、高金利にすることで、異常な物価上昇を抑制することができた。例は、石油ショック後の日本経済。)
 第2に、不況対策。ケインズの処方も、マネタリズムの処方も、景気を改善するという点では、どちらも効果がある。ただし、効果とは別の点で、違いが出る。公共事業の場合、財政支出があるので、その分、コストがかかる。そのコストは、財政赤字という形で、国に蓄積される。その赤字は、いつか返済を迫られる。一方、金融政策では、コストがかからない。なぜか? 金を借りるのは、企業であって、国ではない。だから国にはコストがかからない。また、企業は、借りた金を無意味に消費してしまうわけではなくて、利益を生む生産活動のために投入する。そして将来、利益を得たら、借りた金を利子つきで返済する。借りた金は、元に戻る。というわけで、企業にもコストがかからない。結局、ケインズの処方に比べると、効果は同等で、コストがかからない。それだけ、優位に立つ。
 かくてマネタリズムは、昔ながらの古典派に対しても、ケインズに対しても、優位に立つわけだ。少なくとも、マネタリストはそう主張した。そして、その主張は、大方の支持を得た。
 こうしてマネタリズムは、現代では、経済学の世界で主流派となった。各国の中央銀行では、マネタリズムを信じる人々が席を占めている。国際的な経済機関であるIMFや世界銀行なども、マネタリズムの牙城である。学者も大半がマネタリズムに属する。現代の経済学と、マネタリズムは、ほとんど同義である。
 では、マネタリズムは、正しい学問か? 残念ながら、「ノー」と答えるしかない。なぜなら、マネタリズムには、限界があるからだ。その限界は、現代の経済学の限界でもある。
 それはいったい、どういう限界が? この件は、後述しよう。その前に、マネタリズムというものがどういう理論であるか、もっと詳しく見ることにしよう。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   マネタリズムの方法は、歴史的・経験的に、かなり成功してきた。
   理論的・実質的にも、コストがかからないという美点があった。
   かくて、マネタリズムは、現代では経済学の主流派となった。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇初期マネタリズムとその限界   
 
 マネタリズムとは何か? その核心は、こうだ。──「生産量の調節のために、金融政策を用いること」。
 これは特別な発想ではない。このことは昔から漠然と理解されていた。ただし、緻密に理論を構成したのは、二十世紀半ばのフリードマンだ。
 マネタリズムの根源をさかのぼると、古くからある「貨幣数量説」という学説に突き当たる。「貨幣数量説」は、十八世紀ごろに、古典派が主張していた。それを二十世紀初めごろに、フィッシャーが定式化した。この定式化された内容は、おおざっぱに書けば、次の式である。
    (貨幣量)= (物価水準)×(生産量)
 ここで、「生産量」を一定と見なせば、次のことが言える。
    「貨幣量と物価水準とは、正比例する」
 たとえば、貨幣量が2倍になれば、物価水準が2倍になる。3倍なら3倍。4倍なら4倍。貨幣量と物価水準が、比例関係にある。──そういう主張だ。そして、このことから、「物価の安定のためには、貨幣量を安定させるべし」という結論が得られる。
 のちに、フィッシャーとケインズの発想を踏まえた上で、フリードマンが新たな学説を提出した。彼の学説がマネタリズムだ。本書では特に、「初期マネタリズム」と呼ぼう。
 初期マネタリズムは、貨幣数量説を土台として、マクロ的な発想を(部分的に)取り込んだものだ。概要は、次の通りだ。
 
 目的は、生産量を安定させることである。それには、貨幣量を安定させればよい。つまり、貨幣量を安定させることで、生産量を安定させる。
 では、その理由は? 二つある。──一つは、経験的な事実だ。過去の統計を見ると、両者に強い相関関係があるという事実が判明する。もう一つは、理論的な根拠だ。これは、以下の通り。
 理論の初めに、次の二つの式を示そう。(ただし、Sは貯蓄、Yは生産量、Cは消費、Iは投資。)
   S = Y − C
   I = S
 第1の式は、「貯蓄は、生産量から消費を引いた額である」ということだ。これは、定義である。(だから問題ない。)
 第2の式は、「投資の額は、貯蓄の額に等しい」ということだ。これは、「金融市場で需要と供給が均衡する」ということによる。投資は資金の需要であり、貯蓄は資金の供給である。両者は、金利の変動を通じて、金融市場において均衡する。(需給曲線のモデルによる。)
 この二つの式から、次のことが結論される。
 「消費が減ると、その分、貯蓄が増える。すると金融市場では、資金の供給(つまり貯蓄)が増えた分、金利が変動して、資金の需要(つまり投資)が増える。……結局、消費が減ると、その分、投資が増える。」
 こういうわけで、消費と投資の和である民間需要は、常に一定である。政府が公共事業をいちいち増やさなくても、民間需要だけでしっかり安定するのだ。
 では、そのための条件は? 資金の需要と供給が均衡することだ。つまり、第2の式が成立することだ。そして、それは、原理的には成立するはずだ。とすれば、金利を無意味に変動させないために、貨幣量をなるべく一定の量にしておけばいいだろう。
 ただし若干、補正を要する。原則としては、貨幣量をなるべく一定の量にしておくべきだ。しかし現実には、国全体の生産量は少しずつ拡大していくせいで(および他の理由のせいで)、貨幣需要が増えていく。これらの分を考慮すれば、およそ年に8%程度、貨幣量を増やせばよいだろう。
 以上が、フリードマンの説だ。この「年に8%程度という一定の割合で、貨幣量を増やす」という方法を、「xパーセントルール」と呼ぶ。(この例では、8%という値を用いた。ただしこの値は、ある程度の曖昧さがある。そこで「xパーセント」という言葉を用いる。)
 
 フリードマンの説の要点は、何か? 「xパーセントルール」という言葉が用いられるので、この数値が重要であると思われるかもしれない。だが、「xパーセント」という数値は、ただの補正要因にすぎない。フリードマンの説の核心は、次のことだ。
 「経済を安定させるには、貨幣量を一定にすればよい。そうすれば、金融市場における需給の均衡を通じて、生産量は自動的に安定する」
 この主張は、「貨幣量の安定」を提唱している。ただし、同じく「貨幣量の安定」を提唱するにしても、貨幣数量説と比べると、目的が異なる。「貨幣量の安定」の目的は、貨幣数量説では、「物価の安定」だったが、フリードマンの説では、「生産量の安定」だ。
 
 ここまで、フリードマンの説を紹介してきた。では、フリードマンの説は、正しいか? 評価すれば、こう言える。
 「フリードマンの説は、長期的にはかなり当てはまるが、中期的な景気変動にはうまく当てはまらない」
 つまり、「事実とは正反対である」というほど見当違いではないが、「事実とぴったり合致すると言うにはほど遠い」ということだ。つまり、けっこう大きなズレが生じる。
 「貨幣量を安定させれば景気変動は起こらない」という主張は、ある程度は正しいのだろう。なぜなら、貨幣量をやたらと増減させれば、経済はひどく変動してしまうからだ。とはいえ、「貨幣量を安定させれば景気変動はまったく起こらない」ということはないのだ。貨幣量を安定させていても、景気変動はけっこう起こる。
 では、なぜ? その理由は、仮定または前提にある。フリードマンの説が成立するには、二つのことが前提となるのだが、その前提のどちらかが満たされないのだ。
   ・ 金融市場が商品市場を調整できること
   ・ 金融市場において需給が均衡すること
 フリードマンの説は、この二つを前提としている。しかし、そのどちらも、うまく満たされないことがある。すなわち、次のようなことがある。
   ・ 金融市場が商品市場を調整するとき、遅延が生じる
   ・ 金融市場において需給が均衡しない、という例外がある。
 前者は、一種のタイムラグである。消費が縮小したとき、すぐに投資が拡大すればいいのだが、実際には、金融市場を経由するうちに、タイムラグが生じる。その間に、生産量がどんどん変動していしまう。(短期的には、そういうタイムラグが目立つ。)
 後者は、いわゆる「流動性の罠」だ。市場金利がゼロになると、金融市場において、資金の「供給」は増えるが、資金の「需要」が増えない。供給に需要が追いつかない。ゆえに、資金の需給が均衡しない。(金余り状態。)
 結局、フリードマンの学説は、現実との食い違いが、かなり大幅に生じる。原理的にはだいたい正しいのだろうし、長期的にはかなり当てはまるのだろう。しかし、現実の景気変動を見ると、短期的・中期的なさまざまな要因が影響するので、フリードマンの説の通りにならない。
 要するに、貨幣量を一定にしても、生産量を安定させることはできないのだ。フリードマンの説は、まったくの間違いというわけではないのだが、限界があるのだ。当たらずといえども遠からず、といったところである。
( ※ その限界を理解しよう。その限界に気づかないまま、マネタリズムを完璧な理論だと勘違いすると、とんでもない結果を招くことにもなる。この件は、後述する。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   マネタリズムは、貨幣数量説に基づいて、貨幣量の安定を唱える。
   ただし、貨幣量の安定の目的は、物価の安定というより、生産量の安定だ。
   現実には、貨幣量を安定させても、景気変動が発生する。
   フリードマンの説には、限界がある。現実とはかなり食い違う。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇現代マネタリズムとその限界   
 
 フリードマンの説には限界がある。そこで、フリードマンの説を修正しようとする立場が現れた。これもまた、マネタリズムの一種である。
 つまり、「マネタリズム」と呼ばれるものには、二種類あることになる。本書ではこの二種類を区別して、別々の名称で呼ぶことにしよう。次のように。
   ・ 初期マネタリズム …… フリードマンの説
   ・ 現代マネタリズム …… フリードマンの説を修正したもの
 前項で述べたのは、「初期マネタリズム」の方だ。本項では、「現代マネタリズム」について述べよう。
 
 現代マネタリズムは、初期マネタリズムを修正したものだ。今日、「マネタリズム」と呼ばれるのは、現代マネタリズムである。つまり、フリードマンの説そのものではなくて、これを修正したものだ。では、どこをどう修正したのか?
 まず、簡単にまとめると、現代マネタリズムは次のように主張する。
 「初期マネタリズムの処方は、貨幣量を安定させることだ。しかし、それだけでは、景気変動がいくらか発生する。なぜなら、金融政策の効果が不足するからだ。ならば、金融政策の効果が不足する分、金融政策を多めに実施すればよい。そうすれば、景気を適度に調節できるはずだ」
 この主張の核心は、二つある。
 第1に、基本となるのは、金融市場における「神の見えざる手」である。つまり、資金の需給が均衡することだ。(ただし、金融市場においてであって、商品市場においてではない。)
 第2に、補足的に、「人為的な介入」をなす。つまり、「神の見えざる手」の力だけでは不足するはずなので、不足する分を、人為的に補う。(それが金融政策。)
 たとえば、こうだ。景気が悪化すると、金融市場で金利が下がる。しかし、金利が下がっても、資金需要がなかなか増えない。金利はもっと下がった方がいい。そのためには、人為的に介入して、金利を大幅に下げればいい。そうすれば、資金需要が大幅に増えるはずだ。こうして、投資が大幅に増えて、商品市場では生産量が増大するはずだ。
 これが現代マネタリズムの処方だ。では、これは、学説なのだろうか? 学説であれば、そこには定量的な説明があるはずだ。つまり、「これこれの景気悪化の場合には、これこれの程度の金融調整をせよ」というふうに。(たとえば、ケインズの理論では、そういう定量的な説明がある。その理論を、「乗数理論」という。ケインズのモデルから自然に導き出される。)
 しかしながら、現代マネタリズムには、定量的な発想がない。そもそもの話、生産量を含む経済モデルがない。つまり、現代マネタリズムは、学術的な学説ではないのだ。では、学説のかわりに、何を主張するか? そこで示されるのは、実に粗っぽい方法だ。つまり、こうだ。
 「効果が出なければ、効果が出るまでやれ」
 たとえば、景気悪化のとき、利下げをする。そのために、貨幣量を増やす。では、どのくらい? それは、さっぱりわからない。1兆円で不足するなら、2兆円。2兆円で不足するなら、4兆円。4兆円で不足するなら、8兆円。……こうして貨幣量をどんどん増やしていく。「無限に増やせば、いつかは効果が出るはずだ」とひたすら信じて。
 ひたすら信じて? どういう根拠で? ──実は、根拠はない。ただのヤマカンだ。なぜヤマカンかと言えば、当たることもあるし、当たらないこともあるからだ。では、どういうときに当たり、どういうときに当たらないの? 次のようにまとめられる。
   ・ 景気変動が小幅であるとき …… 当たる   (有効)
   ・ 景気変動が大幅であるとき …… 当たらない(無効)
 つまり、現代マネタリズムの処方には、限界があるわけだ。その処方は、景気変動が小幅であれば有効だが、景気変動が大幅であれば無効だ。
 このことについて、具体的に説明しよう。「景気悪化の場合」と「景気過熱の場合」に分けて、@Aで示す。
 
 @景気悪化の場合
 景気悪化があるとする。その程度が小幅ならともかく、その程度が大幅になると、現代マネタリズムの処方は無効になる。この現象は、「流動性の罠」という用語で説明される。
 現代マネタリズムの処方は、こうだ。「利下げが不足するなら、利下げが十分になるまで、貨幣量を増やせ」
 なるほど、景気悪化が小幅であるときには、これでうまく行く。しかし、景気悪化が大幅であると、もはやうまく行かない。なぜか? 利下げをしようとしても、ゼロ金利という壁にぶつかるからだ。
 金利がゼロになれば、ゼロよりも低い金利にはならない。ここでは、「効果が出なければ、効果が出るまでやれ」という方法は、もはや無効になる。これが「流動性の罠」という現象だ。
 ゼロ金利の状況では、いくら貨幣量を増やしても、資金需要はまったく増えない。このことは、すでに実証されている。二〇〇〇年以降、ゼロ金利が続いた状況で、日銀はやたらと貨幣量を増やした。「効果が出なければ、効果が出るまでやれ」と信じて。──で、その結果は? 統計的に見ると、効果は、小さなプラスであるどころか、マイナスであった。つまり、金融市場に投入した貨幣量は数十兆円にまで拡大したのだが、銀行融資の量は増えるどころか減ってしまった。ここでは金融政策は、力不足であるどころか、完全に無効であったのだ。数十兆円も使いながら、ただの1円ですら投資を増やすことができなかったのだ。(その理由は? もともと金余りであったからだ。たとえて言おう。水をたんまり飲み過ぎた馬に、さらに水を与えても、馬は水を飲まない。水でなくニンジンでも、同様だ。どんなに大量にニンジンを与えても、満腹した馬はもう食わない。)
 要するに、「供給を増やすことで需要を増やす」という方法には、限界があるのだ。
 
 A 景気過熱の場合
 景気過熱があるとする。その程度が小幅ならともかく、その程度が大幅になると、現代マネタリズムの処方は無効になる。ただし、「効果がまったくない」という意味ではなくて、「効果はあるが、同時に、ひどい弊害がある」という意味だ。
 景気過熱が小幅であるときなら、さして問題はない。必要な利上げの幅は、せいぜい数パーセントだろう。たとえば、金利を4%から7%に上げる。それで景気過熱が収まるのであれば、それはそれでいい。
 しかし、景気過熱が大幅だと(それも極端に大幅だと)、必要な利上げの幅は、数パーセントでは済まなくなり、年利20%とか年利30%というような、とてつもない高金利になる。なるほど、その高金利によって、物価上昇という問題は、かろうじて解決されるだろう。しかし同時に、異常な高金利を払えなくなった企業が、どんどん倒産していく。そういう弊害がある。
 仮に、年率30%の高金利となったとしよう。先進国の先端企業で、こんな超高金利を支払える企業は存在しないはずだ。というわけで、トップレベルの超優良企業でさえ、みんな倒産してしまう。ここでは、経営体質が悪い企業が倒産するのではなくて、異常な高金利のせいで、無理やり倒産させられるのだ。
 ただし、こういう状況でも、うまく立ち回れる産業はある。それは、投機をやる産業だ。金利が30%になったとしても、物価上昇率が40%を上回れば、物資を買ってから物資を売ることで、利ザヤを得ることができる。──つまり、まともな企業は存在できないとしても、ヤクザな企業は存在できる。
 具体的な例を示そう。一九九〇年代のロシアだ。ここでは、ひどい物価上昇があった。それに対し、現代マネタリズムの処方がなされた。金利は著しく引き上げられた。年利で50%を上回る高金利となった。
 そのことで、問題は解決したか? 解決するどころか、ひどく悪化した。まず、極端な高金利にともなって、金利を払えなくなった企業が、次々と倒産していった。そのあと、企業が倒産したことの結果として、供給力が不足したので、物価上昇がますます進んだ。そこでまた、物価対策と称して、金利を引き上げた。……こういうことがどんどん続いた。次のように。
    利上げ → 倒産 → 物価上昇 → 利上げ → 倒産 → 物価上昇 → ……
 つまり、「利上げが利上げを招く」という形で、悪循環が生じた。利上げのスパイラルだ。あげく、とてつもない超金利となった。そして、悪循環が進んでいく過程で、どんどん倒産が広がり、どんどん供給力が縮小していった。こうして、一国の経済システムが破壊されていった。
 ここでは、現代マネタリズムの処方は、効果が不足したのではなく、逆効果があったのだ。薬になったのではなく、恐ろしい毒となったのだ。では、その理由は? それは、現代マネタリズムの方法が、あまりにも粗っぽいということだ。
 「効果が出なければ、効果が出るまでやれ」
 という方法。その方法を取ると、いつかは効果が出るのか? いや、効果が出ないまま、金融政策ばかりが過剰に進むのだ。効果がまだ出ないので、「まだ足りない、まだ足りない」と、金利をどんどん上げいく。あげく、最終的には、極端な高金利にするので、経済システムが破壊されてしまうわけだ。
( ※ 似た例は、昔話にもある。「馬を鞭打って、馬を働かせる」という方法だ。この方法が有効だと聞いた親方が、自分の馬を鞭打った。「効果が出なければ、効果が出るまでやれ」と。そして、しきりに鞭打ったあげく、病気の馬はあまりにも鞭打たれたせいで、死んでしまった。)
( ※ そもそも年利50%なんてのは、あまりにも異常である。その異常さに気づかないで、異常なことを平気で主張するのが、現代マネタリズムを信じる人々だ。代表はIMFである。たいていの経済学者も同様だ。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   現代マネタリズムは、初期マネタリズムの限界を打破しようとした。
   「神の見えざる手」で不足する分を、人為的な金融調整で補おうとした。
   「効果が出なければ、効果が出るまでやれ」という方針を取った。
   その方針は、景気変動が小幅であれば、うまく行くことが多い。
   景気変動が大幅であれば、効果が出ないまま、調整量が異常に拡大する。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇歴史のまとめ   
 
 歴史の話は、これで終える。最後に、話をまとめて、歴史の概略を示そう。次のようになる。
 最初、アダム・スミスが、「神の見えざる手」という概念を提出した。そのあとで、初期の古典派たちが現れた。彼らはそれぞれ、価格決定のメカニズムのための理論を提出した。こうして経済学が成立したと思えた。……とはいえ、それらの理論は、あまり科学的ではなかった。
 次の時代に、新古典派が現れた。彼らは数学を駆使して、厳密な理論を構築した。経済学は立派な学問になったと思えた。……とはいえ、それらの理論は、現実の景気変動をうまく説明できなかった。さらに、世界大恐慌にぶつかると、新古典派の処方は効果があるどころか逆効果となった。
 二十世紀になって、ケインズが現れた。彼はまったく新たな発想をなした。まず、「ミクロ/マクロ」という区別をして、古典派の範囲をミクロの分野に限定した。マクロの分野に、「神の見えざる手」とは別の原理を導入した。ケインズの理論は成功したと思えた。実際、小規模の不況には、うまく対処できた。……とはいえ、インフレに直面すると、ケインズの処方は無力になった。さらに、スタグフレーションに直面すると、ケインズの処方は有害にすらなった。
 やがて、初期マネタリズムが現れた。これは、貨幣数量説を基本として、マクロ的な視点を取り込んだものだった。その処方は、「貨幣量の安定」である。結果として、「物価の安定」と「生産量の安定」が実現されるはずだった。そして実際、「物価の安定」には成功した。……とはいえ、もう一つの目的である「生産量の安定」には失敗した。その方法では、どうしても景気変動が生じてしまうのだ。
 のちに、初期マネタリズムを発展させる形で、現代マネタリズムが現れた。これは、初期マネタリズムを基本としながら、若干の修正をしている。景気変動をなくすためには、「貨幣量を一定にすること」のかわりに、「貨幣量を人為的に操作すること」を基本とする。そして、「効果が出なければ、効果が出るまでやれ」と主張する。その方法は、小規模な景気変動には、うまく成功した。とはいえ、大規模な景気変動には、失敗した。大規模な不況に対してはまったく無力になったし、物価上昇をともなうスタグフレーションに対しては逆効果となった。
 以上が、経済学の歴史だ。結局、謎を解決したと思っても、また別の謎が現れる。「謎のあとにまた謎が」という形で、いつまでたっても謎の海を抜け出せないわけだ。いわば、迷宮のなかでぐるぐると巡って、出口を見出せずにいるように。
 
 現在の経済学は、こういう歴史を経てきた。
 では、今現在は、どうなっているか? もちろん、百家争鳴状態だ。ただし、最大公約数的な立場を示せば、次のように場合分けされる。
   ・ 普通の景気のとき …… 古典派の手法で。
                     (「神の見えざる手」に任せる。)
   ・ 小規模な景気悪化のとき …… ケインズまたは現代マネタリズムの手法で。
                     (財政政策または金融政策)
   ・ 小規模な景気過熱のとき …… 現代マネタリズムの手法で。
                     (金融政策)
   ・ 大規模な景気悪化または大規模な景気過熱のとき …… お手上げ
                     (何をやっても、無効または逆効果。)
 この四つをまとめると、こう言える。
 「経済学が有効であるのは、経済学がさして必要とされていないときだけだ。経済学がどうしても必要とされているときには、経済学はまったく役に立たない」
 これは、皮肉な現実である。たとえて言えば、経済学はヤブ医者みたいなものだ。医者がさして必要でないときには、ヤブ医者でもいくらか役立つが、医者がどうしても必要なときには、まったくの役立たずである。
 
 結局、現在の経済学を、どう評価すべきか? 「未完成」と評価すべきだろうか? もし「未完成」だとすれば、何らかの補正を加えることで、経済学を完成させればいいはずだ。──しかし、「未完成」というよりは、「根本的に狂っていると」と評価されるべきだろう。なぜか? さまざまな学説は、一定の成果を出したが、その一方で、不正確どころかまったく見当違いの結論を出すからだ。
 具体的に示そう。「スタグフレーション」という状況がある。これに対して、各学説は次のような処方を示す。
   ・ 古典派 …… 「何もしないでいい」
   ・ ケインズ ……「穴を掘って埋めよ」
   ・ 初期マネタリズム …… 「貨幣量を一定にせよ」
   ・ 現代マネタリズム …… 「金利調整をやれ。効果が出るまでやれ」
 しかし、どれもこれも、馬鹿げた結論につながる。
   ・ 「何もしないでいい」
      → 無為無策がいいのなら、経済学はもともと不要だ。
   ・ 「穴を掘って埋めよ」
      → 穴を掘って埋めるぐらいなら、何もしない方がマシだ。
   ・ 「貨幣量を一定にせよ」
      → 不況の直前に貨幣量が縮小した、という事実はない。
   ・ 「金利調整をやれ。効果が出るまでやれ」
      → 効果が出ないまま、貨幣量が極端に変動するだけ。
 つまり、常識から判断する限り、経済学者の主張はほとんど狂気的だ。常識のある人間ならばわかることが、経済学者にはわからない。奇妙キテレツな理屈にこだわる。
 では、なぜ? 経済学者が、自説にこだわるあまり、現実を見なくなったからだ。現実よりも、おのれの信念を優先する。──これは、ちょうど、天動説を信じる人々のようだ。「大地 earth を中心に天が創造された」という信念にこだわるあまり、「大地 earth が動く」という説を拒む。現実無視。
 結局、経済学の歴史とは、真実を探る歴史ではなくて、真実を探ることを自ら阻んできた歴史だ。真実を知るためには、自らの限界を打破し、自らの欠陥を否定することが必要である。しかし経済学者は、自己の限界や欠陥に目を向けようとせず、ただ自分の正当性を主張するばかりだった。
 では、どうするべきか? 経済学者が自らの欠陥に気づかないのであれば、誰かが経済学者の欠陥をえぐりだす必要がある。そして、欠陥があらわになったあとでなら、新しい一歩を踏み出せるはずだ。
 次節では、さまざまな経済学説の欠陥を、はっきり指摘することにしよう。それは、歴史的なアプローチとは別のアプローチであり、理論的なアプローチだ。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   経済学の歴史は、謎のあとで謎が現れる、ということの繰り返しだった。
   真実を探るためには、従来の学説の欠陥を知るべきだ。それは、次節で。
   ┗───────────────────────────────────
 
■T・2 従来の経済学の理論   
 
 従来の学説の欠陥がどこにあるかを、理論的に考察する。
 
◇方針   
 
 経済学の歴史的を見た結果、何がわかったか? それは、「われわれは何もわかっていない」ということだ。
 なるほど、経済学の分野では、多くの成果が上がっている。しかしそれらの成果は、とうてい十分なものではない。経済学者は、真実をうまくつかんでもいないし、真実の表面を撫でてすらいない。見当はずれのものをつかんで、それを勝手に「真実だ」と勘違いしているだけだ。
 では、どうするべきか? 既存の経済学を部分的に修正するべきか? いや、むしろ、ゼロから新たなものを構築するべきだろう。
 では、どうやって? いきなり無から有を生むことは困難だ。ならば、たとえ間違いだらけであるにしても、先人のたどった道を知っておく方がいいだろう。実際、そういう方針のもとで、これまでずっと、過去の歴史を見てきたわけだ。
 そしてすでに、歴史を見た。このあとでは、もっと大切なことをなそう。すなわち、先人が誤ったという事実を知るだけでなく、どこをどう誤ったかを詳しく探ろう。そのことが、真実を探り出す手がかりとなるはずだ。
 というわけで、このあとでは、従来の経済学について理論的に考察する。その際、話題としては特に、「不況」を取り上げる。(その理由は次に示す。)
 
 [ 補足 ]
 以後では特に、「不況」を取り上げる。その理由は、「不況」だけが問題をうまくえぐりだすからだ。「不況」とは、「大規模な景気悪化」である。これ以外にも、さまざまな状況があるが、あまり都合が良くない。たとえば、「小規模な景気悪化」や「小規模な景気過熱」もあるが、この両者なら、従来の経済学でも十分に扱える。また、「大規模な景気過熱」や「スタグフレーション」もあるが、これらは、いろいろと込み入った事情があるので、典型的な例とはならない。というわけで、話を「不況」に限定する方が、説明のために好都合なのだ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   このあと、従来の学説について、理論的に考察していく。
   特に、「不況」(大規模な景気悪化)を話題にする。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇ケインズ理論への評価   
 
 まずは、ケインズに登場してもらおう。不況を話題にするのであれば、ケインズこそ最初に登場するにふさわしいからだ。(論述の都合で。)
 ケインズ理論には、美点と欠点がある。前節でも述べたが、簡単にまとめれば、次の通りだ。
   ・ 美点 …… マクロ経済学を開拓したこと
   ・ 欠点 …… 公共事業という処方に難点があること
 この両者について、次の@Aで述べる。
 
 @ 美点
 ケインズ理論の美点は、「マクロ経済学を開拓した」ということだ。この美点には、二つの意味がある。
 第1に、古典派の適用範囲を、「ミクロ」に限定したということだ。古典派の「神の見えざる手」という原理は、正しいと見えることもある。しかし「神の見えざる手」は、ミクロの分野に当てはまるだけであって、マクロの分野には当てはまらない。一方、不況は、マクロ的な現象である。だから、不況解決のために「神の見えざる手に任せればいい」と唱えても、それは見当違いなのだ。──そういうことを、ケインズは見事に指摘した。
 第2に、マクロ経済学の分野を開拓したということだ。ただし、この件は、話が込み入るので、本項では述べず、次項で述べる。
 
 A 欠点
 ケインズ理論には、欠点がある。それは処方の欠点だ。具体的には、次の二つだ。
   ・ 不完全さ …… 財政赤字が発生するのを無視すること
   ・ 限界    …… 小規模でなく大規模な不況には対応できないこと
 この二つについては、先にも説明したが、あらためて説明しておこう。
 第1に、不完全さ。ケインズの処方により、「生産量の拡大」というメリットは生じる。しかし同時に、「財政赤字」というデメリットが生じる。そのデメリットを、ケインズは無視する。表で富を得て、裏で借金を得たとき、表の数字だけを見て、「富が増えた」と思い込み、裏の借金を無視する。(一種の破滅主義だ。)
 第2に、限界。全体では、「生産量の拡大」という効果がある。しかし内部では経済が歪んでいる。全体としてのGDPはふくらむが、内部では土木産業ばかりが過剰にふくらんで、他の産業はしぼんだままだ。こういうふうに、比率が歪む。つまり、一国経済の産業構造が歪む。小規模な景気悪化のときなら、歪みが露見しないが、大規模な景気悪化のときなら、歪みは一挙に噴出する。なのにケインズは、そういう内部の事情を見ない。
 この二つをまとめて言えば、「表面と全体を見るだけで、裏面や内部を見ない」ということだ。結局のところ、ケインズは、「全体量を見る」という成功をなしたが、同時に、「全体量しか見ない」という失敗を犯したのだ。
 
 さて。美点と欠点を並べながら、ケインズの理論を評価しよう。
 美点。──ケインズの「マクロ経済学」という発想は、これはこれでいい。あとは、ケインズの発想を基盤とした上で、発想をさらに発展させていけばよい。
 欠点。──発想は別として、その処方については、問題がある。その処方には、「不完全さ」「限界」という欠点がある。では、どうするべきか? ケインズの理論を微修正すればいいのか? いや、そんな生やさしいことでは済まない。ケインズの理論は、どこかに根源的な間違いがあるはずなのだ。その根本的な間違いを見出すことが大事だ。
 この件は、複雑になる。だからあとで、別の章を立てて、詳しく述べることにする。今はとりあえず、「ケインズ理論のどのあたりを正せばいいか」ということを、おおざっぱに理解しておけばよい。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   ケインズ理論には、美点と欠点がある。
   美点は、マクロ経済学の発想だ。これは、そのまま発展させればよい。
   欠点は、「公共事業」という処方だ。これは、根本から修正するべきだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇質と量   
 
 ケインズの理論のあとで、古典派の理論に移ろう。ただし、古典派の理論に移る前に、両者の対比をしておこう。それは「質と量」という対比だ。すなわち、次の対比ができる。
   ・ 古典派   …… 「質」の改善をめざす
   ・ ケインズ …… 「量」の拡大をめざす
 そもそも、「質」と「量」はまったく別のものだ。両者を混同してはならない。そしてまた、古典派とケインズとは、それぞれのめざすものが異なる。こういう違いをはっきりわきまえておこう。
 
 さて。先に「ミクロ/マクロ」を「部分市場/全体市場」というふうに説明した。しかし、両者の違いとして本質的なのは、市場規模の違いではない。このことは、中間的な規模の市場を考えるとわかる。
   ・ 「村/市/県/国/世界」という、さまざまな規模の市場
   ・ 「孤島経済」という、隔絶された小規模市場
 つまり、大きな部分市場もあるし、小さな全体市場もある。これらの市場については、ミクロ的に扱うべきか、マクロ的に扱うべきか、判別しがたくなる。だから、市場の規模で「ミクロ/マクロ」を区別するべきではないのだ。
 では、どうやって区別するか? この話はかなり面倒になる。とはいえ、簡単に言えば、次の一言で示せる。
 「量の変動を考えないのがミクロ、量の変動を考えるのがマクロ」
 つまり、対象によって区別するのではなく、認識法によって区別する。具体的に説明しよう。
 ミクロでは、量の変動を考えない。全体量が一定である市場のなかで、配分の最適化だけを考える。(これは「質の向上」に相当する。)
 マクロでは、量の変動を考える。市場の全体量が変動するものと見なして、どう変動するかを考察する。(これは「量の拡大」に相当する。)
 
 では、こういう区別をすると、何がわかるか? 次のことだ。
 「ミクロの問題は、『神の見えざる手』で片付く。マクロの問題は、『神の見えざる手』で片付かない。」
 つまり、景気変動というマクロ的な問題は、「神の見えざる手」というマクロの発想では片付かないのだ。古典派は「市場は『神の見えざる手』で最適化される」と主張する。しかしその主張は、「ミクロ的な市場では『神の見えざる手』で配分が最適化される」ということを意味するだけであり、「マクロ的な市場でも『神の見えざる手』で市場の量が最適化される」ということを意味しない。「質」の最適化と「量」の最適化とは、別の問題なのだ。
 そういう意味で、ミクロの分野とマクロの分野は異なる。このことを踏まえた上で、古典派について論じることにしよう。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   ミクロとマクロの区別は、市場規模の区別によってなされるのではない。
   量の変動は、ミクロでは扱われないが、マクロでは扱われる。
   ミクロの課題は「質の改善」であり、マクロの課題は「量の拡大」だ。
   「質」と「量」の区別が大切だ。景気変動は、「量」の変動の問題だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇古典派への評価(概要)   
 
 このあと、古典派の理論について評価する。ただし、古典派といってもいろいろとあるので、いくつかに分類しておこう。
 先に説明したときには、「初期の古典派/新古典派/マネタリズム」というふうに分類した。これは、歴史的な分類だ。一方、理論的な分類では、現代の古典派はおおざっぱに、次の三つに分類できる。
   ・ サプライサイド
   ・ マネタリズム
   ・ 不完全市場派
 この三つについて、以下ではそれぞれ独立した項目で論じることにする。ただし、その前に、簡単に紹介しておこう。
 
 @ サプライサイド
 これは、典型的な古典派だ。「初期の古典派」に近い。「神の見えざる手」を信奉して、「市場原理」ですべてカタが付くと思っている。
 
 A マネタリズム
 これは、金融市場を重視する古典派だ。マクロ的な「生産量」という概念を導入している点で、「初期の古典派」とは異なる。とはいえ、「生産量」を商品市場で直接的に見るのではなくて、あくまで金融市場の側から間接的に見るだけだ。
 
 B 不完全市場派
 これは、「神の見えざる手」を信奉するので、その意味では古典派である。ただし、「現実が理論通りにならない」と解釈するので、その意味では、ちょっと古典派からズレている。拡張された意味の古典派である。
 
 この三つがある。そのいずれも、「神の見えざる手」を原則としており、「市場による最適化」を主張する。その意味で、「市場による最適化」を否定するケインズとは、明らかに異なる。「量の最適化は市場に任せるだけでは不可能だ」というのが、ケインズの理論の根幹であるからだ。この件は、[ 補足 ]で説明する。
 
 [ 補足 ]
 古典派とケインズの発想の違いを説明するために、「パイ」の比喩で言おう。(先にも述べた。)
 パイの配分をする。それには、どうすればいいか? 10人の人間がいて、12人分のパイがあるなら、問題ない。市場に任せるだけでいい。しかし、12人分でなく、7人分のパイしかないときには、どうか?
 「市場に任せるだけでは、3人分の不足が必ず生じる。この不足については、パイの全体量を量的に大きくするしかない」というのが、ケインズの主張だ。しかし古典派は、その発想を否定する。「全体量を調節する必要はない。あくまで市場に任せるべきだ。そうすれば、問題は解決する」と主張する。つまり、「7人分のパイしかなくても、10人が食べられる」と主張する。では、なぜ? 
 古典派の発想は、こうだ。「パイを食べられなかったとしたら、本人が食べる気にならなかったからだ」と考える。そして、「10人いるうちの3人が食べられなかったなら、その3人が食べる気にならなかったからだ。その3人が食べるためには、その3人が食べる気になればいい」と結論する。しかし、である。その3人が食べる気になったら、別の3人が新たにあぶれるはずだ。すると古典派は、「あぶれた3人がまた食べる気なればいい」と考える。(別の3人が新たにあぶれることを無視する。)
 こういう論理は、とんでもないメチャクチャな論理である。ところが、現代のたいていの経済学者は、そういうメチャクチャな論理で主張する。具体的に示そう。
 「失業」という問題がある。多くの若者が失業状態である。では、どうするべきか? 「失業をなくすには、一国全体の生産量を拡大するしかない」と主張するのが、ケインズだ。これは「雇用者の総数を増やすしかない」というマクロ的な発想だ。つまり、「パイの全体量を大きくせよ」という発想だ。
 一方、「失業をなくすには、一人一人の失業者が努力すればいい」と主張するのが、古典派だ。これは、「雇用者の総数を増やさなくても、特定の失業者を雇用させればいい」という発想だ。つまり、「7人分のパイしかなくても、10人がパイを取れる」という発想だ。(あるいは、「7人分の席に、10人が座れる」という発想だ。)
 まったくメチャクチャな論理であるが、政府であれ、経済学者であれ、こういう処方ばかりが主張されている。「失業解決のためには、各人の技能を高めればよい」と。そこには「全体量を増やす」というマクロ的な発想がない。
 マクロ的な発想がないと、メチャクチャな論理を取っても、そのメチャクチャさに気づかないものだ。だからこそ、マクロ的な発想が必要となる。しかるに、この発想が欠けているのが、古典派だ。以下では、それぞれの古典派について、具体的に見ていこう。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   古典派には、「サプライサイド」「マネタリズム」「不完全市場派」がある。
   そのいずれも、「質」的な発想があるだけで、「量」的な発想がない。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇サプライサイドへの評価   
 
 古典派のさまざまな学派のなかでも、最も典型的なのが「サプライサイド」である。(「初期の古典派」にかなり似ている。)
 「サプライサイド」は、直訳すれば「供給側」である。その意味は「供給側だけを重視すること」つまり「需要側を無視すること」だ。とはいえ、このことは、あまり根源的ではない。
 サプライサイドの根源には、実は、一つの発想がある。それは、「科学主義」または「分析主義」の発想である。(厳密な用語で言えば、「要素還元主義」。)──この発想は、簡単に言えば、こうだ。
 「複雑な現象は、単純な現象に分解できる」
 これは、自然科学の分野では広く信じられている発想だ。それと同じ発想を、経済学で取る。サプライサイドは、この発想に基づいて、こう主張する。
 「一国全体の経済現象は、個々の企業の経済現象に分解できる。一国全体で景気が良くなったり悪くなったりするのは、個々の企業が良くなったり悪くなったりするからだ。個の総和が全体なのだ」
 これは、あまりにもわかりやすい発想だ。「4=1+1+1+1」というのと同じくらい単純な発想だ。そして、この発想に基づいて、次のような対策を提案する。
 「景気が悪くなったときは、一つ一つの企業で収益性が悪化したからだ。ゆえに、景気を良くするには、一つ一つの企業が独自に収益性を改善すればよい。たとえば、賃金を下げて人件費を下げたり、生産性を向上させて原価を下げたり。……このようにすれば、一つ一つの企業が黒字になり、かくて、国全体の全企業が黒字になる。だから、景気対策とは、企業が賃下げや生産性の向上をめざすように、政府が音頭を取ることだ」
 
 では、サプライサイドの説を、どう評価するべきか? その主張は、いかにもわかりやすいが、あまりにも単純すぎる。こんなものは十八世紀の遺物であるにすぎない、と評価してよさそうだ。(ほとんど錬金術と同様である。)
 まず、サプライサイドの主張することは現実にはありえない、とすぐにわかる。サプライサイドの主張によれば、こうなるはずだ。
   ・ 好況期には、日本中の企業がそろって質的に向上する
   ・ 不況期には、日本中の企業がそろって質的に悪化する
 これではまるで、オーケストラが指揮者に従っていっせいに演奏するように、日本中の企業がいっせいに質的に向上したり質的に悪化したりすることになる。(その結果が景気変動だ。)
 しかし、そんな完璧な協調行動は、とうていありえない。畳産業のような特定産業だけが質的悪化するならともかく、自動車産業やハンバーガー産業や無数の外食屋までいっせいに質的悪化することなどありえない。また、IT産業では大幅な質的改善があったが、それでもIT産業は収益性が改善するどころか悪化した。……要するに、「全企業がいっせいにそろって質的に悪化する」ということは、ありえないのだ。
 
 別の理由もある。それは論理的な矛盾だ。
 仮に、「質的な悪化」があったとしよう。たとえば、「生産性の低下」や「人件費の上昇」があったとしよう。その場合には、「生産コストの上昇」を通じて、「物価上昇」つまり「インフレ」が起こるはずだ。ところが、現実にはどうか? 不況期には「物価下落」つまり「デフレ」が起こる。……これは論理矛盾だ。
 こういう論理矛盾がある。なのに、それに気づかないまま処方を出せば、その処方は当然、見当違いのものとなる。たとえば、サプライサイドは、「質の改善」のために、次のような処方を出す。
   ・ 生産性の向上
   ・ 人件費の低下
 しかしそのいずれも、効果があるどころか逆効果がある。次のように。
   ・ 生産性の向上 → 必要人員の削減 → 失業増加 → 総所得の減少
   ・ 人件費の低下 → 総所得の減少
 いずれにしても、「総所得の減少」が起こる。そして、「総所得の減少」は「総需要の減少」をもたらすから、「総生産の減少」をもたらす。
 結局、それぞれの企業が「質の改善」という努力をすればするほど、全体としては「量の縮小」が起こるので、不況はかえって悪化してしまうのだ。(自分で自分の首を絞めるようなものだ。)
 というわけで、サプライサイドの処方は「間違い」と評価できる。その処方に従って、「質の改善」を進めれば進めるほど、状況は悪化していくのだ。(理由は、「量の縮小」が起こるから。)
 
 とはいえ、「そんな馬鹿な」と思う人も多いだろう。「質の改善が状況を悪化させる? ならば逆に、質の悪化が状況を改善するのか?」と。──そこで、解説しておこう。
 まず返答をすれば、「質の悪化が状況を改善する」ということはない。「質の改善も、質の悪化も、どちらも状況を悪化させる」というのが正しい。要するに、量の問題は量の問題であって、質をどうこうするかには関係ないのだ。
 とはいえ、「質の改善」が、必ずしも無益であるわけではない。「質の改善」が状況を改善する場合もある。それは、「インフレ」の場合だ。
 インフレの場合には、「供給不足」という問題が起こっている。この状況で、「質の改善」をすると、同じ労働力でいっそう多くの生産なされる。だから、「供給不足」という問題は解決する。すなわち、「質の改善」は「供給の拡大」をもたらすことで、状況を改善する。
 では、不況の場合は? 不況の場合には、「供給不足」という問題は起こっていない。むしろ、「需要不足」という逆の問題が起こっている。ここでは、「質の改善」は「供給の拡大」をもたらすことで、状況を改善するどころか悪化させるのだ。
 結局、「質の改善」は、インフレ対策であって、不況対策ではない。インフレも不況も、どちらでも経済は質的に悪化している。しかし、その症状は正反対なのだ。
 たとえて言おう。インフレのときには経済の体温が上がっており、不況のときには経済の体温が下がっている。そして「質の改善」は、経済の体温を下げる効果があるわけで、いわば解熱剤だ。この薬は、インフレという高熱の患者には有益だが、不況という低熱の患者には有害なのだ。「同じ薬が、インフレにも不況にもどちらにも有益だ」ということはないのだ。
 経済現象を見るときには、「質が悪化したか否か」を見るだけでなく、「量が縮小したか否か」を見るべきだ。つまり、「病気か否か」を見るだけでなく、「体温が下がるタイプか上がるタイプか」を見るべきだ。──なのに、その区別ができないと(つまり量的な認識がないと)、インフレも不況もどっちも同じ現象だと見なして、どっちにも同じ処方を示す。インフレ対策としての「質の向上」という処方を、不況への処方として示す。これでは、いわばヤブ医者だ。
 それが、サプライサイドに対する評価だ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   サプライサイドは、国全体の経済を、個々の企業の総和としてとらえる。
   国全体の景気変動に対して、個々の企業における「質の改善」を処方する。
   各企業の「質の改善」は、インフレには有益だが、不況には有害だ。
   サプライサイドの主張は、現実に合致しないし、論理矛盾を含む。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇マネタリズムへの評価   
 
 マネタリズムも、古典派の一派である。すなわち、「神の見えざる手」を基本原理とする。ただし、「質」だけを重視するサプライサイドとは異なり、「量」を認識する。
 マネタリズムの主張は、こうだ。
 「貨幣量を調整することによって、生産量を調整できる」
 この主張には、「生産量」という概念がある。つまり、「量」の認識がある。とすれば、マネタリズムには、マクロ的な発想があるのだろうか? いや、そうではない。──この件については、長めの説明を要する。以下で示そう。
 
 まず、マネタリズムとは何か? これについては、先の歴史的な説明を思い返そう。マネタリズムには、「初期マネタリズム」と「現代マネタリズム」という二種類がある。それぞれ、次のようにまとめられる。
   @ 初期マネタリズム。
    ・ 処方は …… 貨幣量の安定
    ・ 効果は …… (貨幣増発による)インフレを抑制できること
    ・ 限界は …… ある程度の景気変動はどうしても生じること
   A 現代マネタリズム
    ・ 処方は …… 人為的な介入(利下げ・利上げ)
    ・ 効果は …… 小規模の景気変動を抑制できること
    ・ 限界は …… 大規模の景気変動には無効(かつ有害)なこと
 これらの点をかんがみて、マネタリズムの核心を示そう。
    
 第1に、本質。
 マネタリズムの本質は、「金融市場を経由して商品市場を操作すること」だ。一種の間接的な操作である。商品市場を直接的に操作しようとするサプライサイドやケインズとは異なる。
 
 第2に、難点。
 マネタリズムの難点は、「商品市場を操作するのに、金融市場を経由する道しか取らないこと」だ。現実の経済には、マネー以外にも、さまざまな要素が影響している。公共投資とか、財政赤字とか、消費心理とか、原油価格とか、気候変動とか。……そういう多くの要素が、複雑にからみあって、実際の経済に影響する。なのにマネタリズムは、マネーだけに着目して、他の一切を無視する。さまざまな要素をすべて排除して、すべてをマネーだけで済ませようとする。……これを数式で言えば、
       f (x1, x2, x3, x4, x5, ……x n)
 というn個の変数に依存する関数を、マネーという1変数だけに着目して、
       f (x)
 というふうに1変数の関数として解釈する、というようなものだ。あまりにも不正確かつ粗雑である。デタラメと言うしかない。
 結局、マネタリズムは、マネーのことを考えてはいるが、マネーのことしか考えていないのだ。現実の世界で金のことばかり考えている人間が「守銭奴」と呼ばれるように、経済学の世界で金のことばかり考えている人間が「マネタリスト」と呼ばれる。(いずれも視野が極端に狭い。)
 
 第3に、限界。
 マネタリズムには、(第2の)難点がある。この難点から、限界が生じる。それは、処方の限界だ。具体的には、すぐ前に「限界は」として示したとおり。(「初期マネタリズム」および「現代マネタリズム」の区別をしたところ。)
 
 第4に、矛盾。
 マネタリズムには、(第2の)難点がある。この難点から、矛盾も生じる。それを説明しよう。
 マネタリズムによれば、経済は貨幣的な現象である。貨幣量が増えると、物価が上昇したり、生産量が増えたりする。貨幣量が減ると、物価が下落したり、生産量が縮小したりする。……この発想では、「貨幣量 → 生産量」という因果関係がある。しかし現実には、「生産量 → 貨幣量」という逆の因果関係が見て取れる。(つまり、この両者の間に何らかの相関関係があるとしても、因果関係が逆である。)……たとえば、不況のときには、生産量が減ってから貨幣量が減る。貨幣量が減ってから生産量が減るのではない。
 仮に、マネタリズムの主張が成立するとしよう。たとえば、あるとき、「貨幣量の減少 → 生産量の減少」という順で、変化が起こったとしよう。その場合、最初のうちは、「貨幣量の減少」があるだけで、「生産量の減少」はまだ生じていない。となると、金融市場では、「資金需要は同じまま、資金供給だけが減った」という状況となる。とすれば、金利は上昇するはずだ。しかるに、現実には、そうではない。一九九二年ごろから二〇〇二年ごろまで、日本の景気はたえず悪化していったが、その間、金利はずっと低金利だった。(一九九〇年代前半は2%程度で、一九九〇年代後半はゼロ金利近辺。)……この間、景気は悪化していった。とすれば、マネタリズムの主張によれば、「生産量の低下をもたらす貨幣量不足」があったはずだ。つまり、「高金利」があったはずである。ところが現実には、先進国でも例を見ないような低金利であったのだ。「金利を下げた国では景気が悪化していき、金利を上げた国では景気が良くなる」というのでは、マネタリズムの主張と矛盾する。
 
 ここまで、第1から第4までの点を指摘した。これらの話を顧みると、マネタリズムの問題がどこにあるか、はっきりとわかる。それを直感的に理解するには、マネタリズムの処方を思い出すといい。マネタリズムの処方は、次の二通りだ。
   ・ 生産量を増やすため …… 利下げ
   ・ 生産量を減らすため …… 利上げ
 ここでは、生産量というものが考えられている。しかし生産量についての認識は、「それを上げる/それを下げる」という二通りしかない。ここでは、「生産量」の絶対量を数値的に考えていないのだ。
 マクロ的な認識とは、「量」の認識である。「量」は数値で与えられる。たとえば、「GDPが五〇〇兆円である」というふうに具体的な数値で示される。しかしマネタリズムには、そういう発想はない。「GDPを増やす/GDPを減らす」という二者択一で区別をする発想しかない。
 たとえて言おう。気温についての認識として、「摂氏25度」というふうに数値で示す認識があり、「暑い/寒い」というふうに二者択一で示す認識がある。……このうち、前者が「マクロ経済学」の発想であり、後者が「マネタリズム」の発想だ。
 マネタリズムは、「生産量の調整」を考慮する。その意味で、マネタリストは「自分たちはマクロ的な発想をしている」と主張することもある。しかしそこには、本当の意味のマクロ的な発想はないのだ。マネタリズムには、マクロ的な発想があるように見えても、マクロ的な発想はない。「量」を見ても、「量」を数値で示さないからだ。
( ※ 「数値で示さない」というのは、「モデルがない」ということだ。ケインズのモデルには、GDPの変動を示す数値モデルがあるが、マネタリズムのモデルには、「上げ/下げ」があるだけで、数値モデルはない。たとえば、「金利が3%のときにはGDPが五〇〇兆円」というような数値モデルは存在しない。これは、たまたま存在しないという意味ではなくて、根源的に存在できないという意味だ。GDPは「金利」だけを変数とする関数ではないのだから、そういう関数は原理的に存在しないのだ。)
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   マネタリズムは、サプライサイドと異なり、生産量の変動を認識する。
   金融市場の貨幣量によって、商品市場の生産量を、操作しようとする。
   その方法には、効果もあるが、限界もある。また、弊害が出ることもある。
   マネタリズムは、生産量を一応認識するが、生産量を数値で認識しない。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇不完全市場派への評価   
 
 ケインズの理論も、古典派(サプライサイド・マネタリズム)の理論も、難点がある。そこで新たな学説が望まれた。
 まず登場したのは、「折衷主義」と呼ぶべき立場だった。その発想は、「ケインズと古典派を足して2で割る」というものだ。──これは、いかにも安直な学説であるが、けっこう実用的だった。「両者の長所だけを取る」というふうにすればいいからだ。次のように。
   ・ 不況のときには    …… ケインズの方法
   ・ 不況以外のときには …… 古典派の方法
 つまり、こうだ。
 「不況のときには、ケインズの方針に従って、公共事業を増やす。一方、不況以外のときには、古典派の方針に従う。つまり、普通の状態では、自由放任にするが、インフレになったら、貨幣量を減らす(利上げする)」
 この方針は、かなり成功した。実際、これまでの経済政策は、折衷主義の立場で実施されたことが多い。
 では、それで済むのか? 否。折衷主義は、なかなか便利ではあるが、それで済むわけではない。
 そもそも折衷主義は学問としては、「木に竹を接ぐ」というふうになっている。たとえて言おう。物理学で、「粒子説と波動説の、どちらも駄目だ」という事実があるときに、「あるときは粒子説、あるときは波動説」というふうに折衷するようなものである。なるほど、それはそれで、解釈としては成立するだろう。しかしそれでは、あまりにも御都合主義だ。そんなことでは、真実をつかんだことにはならない。折衷主義を取るとき、そこには根源的に対立する二つのものがあるのだ。そこには統一的な世界観が成立しない。
 なるほど歴史的には、折衷主義で成功することは多かった。とはいえ、成功したのは、小規模な景気変動の場合に限られた。大規模な景気変動の場合には、折衷主義は失敗した。こうして、折衷主義は限界にぶつかった。
 
 折衷主義が失敗したあとで、折衷主義とは似て非なる立場が生じた。この立場を、「不完全市場派」と呼ぶことにしよう。(この用語は本書における名称だが。)
 この立場も、ケインズと古典派から半分ずつ取っているように見えた。しかしその本質は、折衷主義とはまったく異なっていた。つまり、「足して2で割る」という安直な方法を取るかわりに、「均衡/不均衡」という点に着目したのだ。その上で、次のように区別する。
   ・ 原則 ……   均衡
   ・ 現実 …… 不均衡
 原則的には「均衡」が達成されるはずだが、現実には「不均衡」になることもある。──そう考えるのだ。そして、次のように主張する。
 「市場では、『神の見えざる手』が成立するはずだ。すなわち、放置すれば、自動的に均衡点に達するはずだ。しかし、原則ではそうだとしても、現実にはそうならない。つまり、『神の見えざる手』の力がうまく働かない場合がある。そういう場合には、均衡点に達せないせいで、不均衡状態となる」
 この発想では、「均衡/不均衡」という差は、市場の性質によって決まることになる。つまり、市場そのものが、「均衡の成立する市場/均衡の成立しない市場」という二種類に分けられることになる。というわけで、次のように名前を付けて、区別することにしよう。
   ・ 完全な市場   …… 均衡が成立する
   ・ 不完全な市場 …… 均衡が成立しない
 完全な市場では、「神の見えざる手」がうまく働くので、均衡が成立する。しかし、不完全な市場では、「神の見えざる手」がうまく働かないので、均衡が成立しない。──このように、「完全な市場」および「不完全な市場」という二種類の市場が、もともとあることになる。
 では何が、両者を区別するか? それは「阻害物」の有無だ。原則としては、阻害物がなくて、「神の見えざる手」が働くはずだ。しかるに現実には、阻害物があって、「神の見えざる手」がうまく働かなくなる場合がある。そういう場合には、均衡が達成されずに、不均衡の状態になる。かくて、「需要不足」の不況が生じたり、「需要過剰」のインフレが生じたりすることになる。
 こうして、不完全市場派は、「均衡/不均衡」という概念に基づいて、不況やインフレを説明した。その手際はあまりにも鮮やかだった。というわけで、現代ではかなり多くの経済学者が、この立場を支持するようになった。
 
 では、不完全市場派は、正しいのだろうか? それを探るために、不完全市場派の主張を詳しく調べてみよう。
 不完全市場派の主張では、市場には阻害物があるはずだ。となると、「阻害物とは何か?」ということが問題となる。これは「犯人捜し」のようなものだ。
 実を言うと、不完全市場派が「犯人」だと指摘したものは、かなり多様である。つまり、「容疑者」はたくさんある。次のように。
   ・ 規制
   ・ 情報不足
   ・ 価格改定コスト
   ・ 不良債権
 これらのものが、「犯人」つまり「市場の阻害物」と見なされる。理屈は、次の通り。
 「犯人は、『規制』だ。政府がやたらと規制をするせいで、企業の自由な経済活動が阻害される。だから、うまく均衡点に達せない」
 「犯人は、『情報不足』だ。市場における売買のための情報不足のせいで、最適な価格が不明確になる。買い手も売り手も、最適な価格がわからないまま、売買に尻込みするようになる。だから、均衡点にうまく達せなくなる」
 「犯人は、『価格改定コスト』だ。需給が変動したとしよう。均衡点の価格が変動したので、価格を改定するべきだ。しかし価格改定には、一定のコストがかかる。そのせいで、値付けを変えず、従来の価格を維持しがちだ。すると、均衡点の価格と実際の価格とが、一致しなくなる。だから、需給が均衡しなくなる」
 「犯人は、『不良債権』だ。投資が不足しているときには、投資拡大のために、銀行が融資を拡大するべきだ。しかし、不良債権があると、不良債権が足カセとなって、銀行は融資を拡大できなくなる。つまり、資金供給が不足する。だから、投資不足が生じる。(投資不足が、総需要の不足を招く。)」
 いずれも、もっともらしい理屈だ。たいていの人は、「なるほど」と思う。しかし、そのすべては、詭弁なのである。これはいずれも、「風が吹けば桶屋が儲かる」と同じで、理屈のための理屈にすぎない。これらの理屈は、真実の一部を突いているどころか、真実とは逆の虚言なのだ。そのデタラメさを、以下で指摘しよう。
 
 まずは補足ふうに、状況証拠を列挙しよう。
 第1に、「真犯人」がいない。──犯罪があれば、「これぞ真犯人」と見なされるものが見出されるはずだ。では、真犯人は何か? 不完全市場派の嫌疑によると、阻害物としては、「規制」や「情報不足」や「価格改定コスト」など、「容疑者」がたくさん浮かぶ。しかし、容疑者がたくさんいるということは、どれもが真犯人らしくないということだ。いずれもちょっとだけ怪しいが、いずれも決定的ではないのだ。
 第2に、容疑者にはいずれも、「アリバイ」らしきものがある。仮に、「規制」「情報不足」「価格改定コスト」などのどれかが、まさしく犯人であったとしよう。だとすれば、不均衡になる直前の時期に、その犯人が急に生じたはずだ。しかし現実には、そうではなかった。これらの容疑者は、不均衡の直前よりもずっと前から存在していた。しかもこの時期には、増えるどころか減っていたのである。(たとえば、一九九〇年代の日本。この時期、阻害物は増えていたか? 逆だ。「規制緩和」という政策もあったし、IT化もあったので、市場の阻害物は増えるどころか急激に減少していった。)
 第3に、容疑者にはいずれも、「凶器」がない。犯罪を行なうにはあまりにも力不足なのだ。なるほど、「規制」「情報不足」「価格改定コスト」は、阻害物として、少しぐらいの力があっただろう。しかし、その力は、不況という劇的な事件を発生させるには、あまりにも力不足なのだ。これらの容疑者は、一部の産業で小規模な不均衡をもたらすことはできるだろうが、一国全体の全産業に渡って一挙に急激に状況を悪化させることなど、できるはずがないのだ。たとえば、「規制を緩和せよ。企業が政府に多大な書類を提出するのは非効率だからだ」という主張があった。なるほど、それはそれで、もっともだ。しかし、書類作成の手間が今まで通りだったということぐらいで、農業やサービス業を含むあらゆる産業で、一挙に急激に不況に突入することなど、とうていありえないのだ。他の「情報不足」などの容疑者も同様だ。
 
 以上をまとめてみよう。不完全市場派の主張は、もっともらしい理屈ではあるが、「理屈倒れ」になってしまっている。そんな理屈では、事実を説明できないのだ。状況証拠から、そう判明する。
 さらに、決定的な難点がある。不完全市場派の主張によると、事実をうまく説明できないどころか、事実とは逆のことを結論してしまうのである。つまり、論理矛盾を起こす。そのことを、以下で示そう。
 不況の場合を考えよう。不況の時には、「需要不足・供給過剰」という形で、不均衡が生じている。このとき、どうするべきか? 不完全市場派の主張に従えば、こうなるはずだ。──「需要不足・供給過剰」という状況が生じているときには、(需給曲線を見ればわかるように)価格が高すぎる。だから、価格を下げればよい。そうすれば、需要と供給は均衡するはずだ。
 ここでは、阻害物とは、価格低下を妨げるものであるはずだ。そこで、価格低下を妨げるものを見出そうとして、「規制」「情報不足」「価格改定コスト」などを指摘する。しかしなかなか、真犯人は見出されない。(前述の通り。)
 それでも、真犯人は判明しないとしても、ともかく真犯人がいたとしよう。そして、真犯人を逮捕して、監獄にぶち込んだとしよう。つまり、価格低下を妨げるものを排除して、価格低下を起こさせたとしよう。──で、それで、問題は解決するか? 
 不完全市場派は、「問題は解決する」と主張するだろう。「価格が下がれば、需要と供給が均衡して、不均衡ではなくなる。ゆえに、問題は解決する」と。しかし、そうか? 均衡さえ達成すれば、問題は解決したことになるのか?
 よく考えてみよう。不況のときには、企業は赤字である。この状況で、価格をさらに下げると、どうなるか? もちろん、需給曲線に従って、需要は増えるから、需要と供給は均衡するだろう。しかし、である。そのとき同時に、企業の赤字幅は大きくなるのだ。かくて、企業の業績が急激に悪化していく。
 実を言うと、企業が価格を下げないのは、何らかの阻害物に邪魔されているからではないし、企業が(情報不足などで)愚かであるからでもない。企業は賢明だからこそ、わざと価格を下げずにいるのだ。なぜなら、価格を下げれば、赤字拡大によって、企業が倒産してしまうからだ。
 不況のときには、価格があまり下がらない。しかしそれは、阻害物に妨げられるからではない。価格が下がらない方が好ましいから、企業は意図的に価格を下げずにいるのだ。仮に、企業が価格を下げると、どうなるか? 企業は大幅赤字を出して、バタバタと倒産していく。同時に、労働者はどんどん失業していく。──そんな形で均衡を実現したとしても、何の意味もないのだ。それはいわば、「病気は治りました、患者は死にました」ということだ。
 不完全市場派は、「均衡/不均衡」に着目する。着目すること自体はいい。しかし、そこにあまりにもとらわれすぎて、「均衡さえ実現すれば万事オーケー」と思っても、正しくないのだ。そんなことでは問題を解決することにはならないし、むしろ、問題を悪化させるばかりだ。(小幅赤字だけで済んでいた企業が、大幅赤字を出して倒産してしまうから。)たとえて言えば、「風邪を解決して、癌にする」というようなものだ。
 結局、「不均衡」という症状だけにとらわれて、「不況」という本質を理解しないままだと、本末転倒になる。
 
 根源的に考えよう。不完全市場派は、どこが間違っていたのか? 彼らは、「均衡/不均衡」に着目したが、同時に、大切なものを見失ってしまった。大切なものとは? それは「生産量」だ。
 景気変動の本質は、「生産量」の変動だ。とすれば、「生産量」という概念が必要不可欠となる。しかるに、不完全市場派の発想には、「生産量」という概念がない。そこに、根源的な難点がある。
 不完全市場派には、マクロ的な視点が欠落している。その意味で、不完全市場派は、しょせんは、古典派の枠組みからは抜け出していないのだ。(ちょっと拡張しているだけだ。)
 不完全市場派は、「不均衡」という概念を採用することで、「均衡点だけ」という古典派の範囲を拡張した。しかしあくまで、広義の古典派に属するのだ。たとえいくらかケインズに似ているように思えても、しょせんはケインズとは水と油ほどにも違うのだ。なぜなら、マクロ的な視点がないからだ。
( ※ 不完全市場派は、「新ケインズ派」「ニューケインジアン」という名称で呼ばれることもある。しかし本質的には、古典派である。ケインズに少し似ているのは、不均衡という概念を採用しているところだけだ。)
 
 [ 補足 ]
 不完全市場派の主張は、まったくの間違いなのか? 実は、そうではない。場合によっては、その主張がうまく適用される状況もある。それは、「カルテル」という状況だ。
 「カルテル」という状況では、生産者が協定して(または暗黙裏に合意して)、供給を減らす。かくて供給不足の状態になる。すると供給不足のせいで、価格はやたらと上がる。──この状況では、不完全市場派の主張が成立する。
 そうだ。カルテルという状況では、市場に阻害物が存在するし、その阻害物のせいで、状況が不均衡になっている。だから、阻害物を排除するべきだ。そうすれば、市場競争が激しくなり、価格が下落して、正常な均衡点に達するはずだ。
 一方、「不況」という状況では、事情が異なる。ここでは、価格が下がらないのは、阻害物があるせいではない。企業としては、価格を下げたくても、価格を下げられないのだ。赤字になるせいで。──仮にこの状況で、市場競争を激しくすると、どうなるか? 「過当競争」が起こる。その結果、企業の赤字幅がふくらんで、状況はかえって悪化する。
 要するに、市場原理がうまく機能しないという不均衡状態には、二種類ある。供給不足の「カルテル」という状況と、需要不足の「不況」という状況。この両者を、区別するべきだ。両者を区別しないで、「競争の激化」を促しても、不況のときには状況を悪化させるだけだ。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   「不完全市場派」は、均衡のほかに不均衡があることを認識する。
   均衡点に達せなくなる(不均衡になる)のは、阻害物のせいだ、と考える。
   阻害物とは、規制・情報不足・価格改定コスト・不良債権などだ。
   不均衡は解消するには、阻害物を排除すればいい、と考える。
   しかし、カルテルでなく不況という状況では、その主張は成立しない。
   不況のときに、価格を無理に下げると、状況はかえって悪化する。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇回顧と指針   
 
 章の最後に、回顧と指針を示そう。過去を振り返って、未来の方向を定めるわけだ。
 ここまでの話は、従来の経済学のことだった。つまり、ケインズと古典派のことだ。(古典派には、サプライサイド・マネタリズム・不完全市場派などがある。)──ここであらためて、ざっとまとめてみよう。
 ケインズと対比しながら、古典派を見ると、古典派の難点がはっきりしてくる。それは、マクロ的な視点がない、ということだ。ケインズには「量」の認識があったが、古典派には「量」の認識がない。では、なぜ、そのことが問題となるのか?
 実を言うと、「質」と「量」の間には、逆説的な関係がある。それは、「質の改善」が「量の縮小」をもたらす、ということだ。図式で示せば、こうだ。
    質の改善 → 量の縮小
 古典派は、「均衡」をめざす。「均衡」に近づくことで、「質の改善」がなされる、と主張する。そこまでは正しい。しかしながら、「質の改善」が進むにつれ、同時に、「量の縮小」が生じるのだ。──つまり、「神の見えざる手」に従って、質的に改善すればするほど、量的に縮小するせいで、状況はかえって悪化してしまうのだ。そういう逆説が成立する。
 このことを、「悪魔の見えざる手」と呼ぼう。これは、次の原理だ。
   「放置すれば、均衡点に近づくので、状況は改善するどころか悪化する」
 この原理は「神の見えざる手」に似ている。実を言うと、「神の見えざる手」と「悪魔の見えざる手」とは、別のものではなくて、一つのものの異なる姿なのだ。同じ一つのものが、状況によって異なる姿を取るだけだ。言い換えれば、不況のときには、「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じるのだ。
 では、なぜ? 実を言うと、そのことを探ることが、経済学の課題となる。
 
 ともあれ、課題はわかった。課題の解決はできていないとしても、課題が何であるかはわかった。そして、課題を理解することは、とても重要だ。なぜなら、従来の経済学では、課題が何であるかを理解しなかったからだ。そのせいで、まったく見当はずれの方向に進んでしまったからだ。
 たとえば、サプライサイドを見よう。彼らは、「神の見えざる手」を無批判的に信じた。そのあげく、どうなったか? 次の通りだ。
 彼らは、「神の見えざる手」を信じて、「質の改善」を唱えた。「質の改善」は、良いことであるから、良いことをすることで状況は良くなるはずだ、と信じた。しかし現実には、良いはずのことをやればやるほど、状況はかえって悪化していった。「生産性の向上」をやればやるほど、「解雇」が増えて、「失業」が増えて、「生産量の縮小」が起こった。かくて、質的には改善したが、量的には縮小した。初めに狙っていたような「不況からの脱出」などはできなかった。逆に、「縮小均衡」という形で、失業者の量は最大にふくらんだ。企業の収益性は好転したが、国民の生活は最低レベルに落ち込んだ。
 では、なぜ、「質の改善」が良くないのか? 実は、「質の改善」は、それ自体が悪いのではない。それが状況に適していないことが悪いのだ。(適材適所の逆。)
 「質の改善」というのは、そもそも、インフレ対策なのである。インフレとは、供給不足の状況である。そのときには、生産性を向上させることで、供給が増えて、物価上昇が抑制される。それは良いことだ。だから、インフレ対策としては、「生産性の向上」は好ましいのだ。しかるに、インフレ対策である「生産性の向上」を、不況のときになすのでは、方向が正反対である。
 あらゆる病気に有効な万能薬などは存在しない。状況に応じて、状況にふさわしい処方をなすべきだ。そして、そのためには、状況がどんな状況であるかを、よく理解するべきだ。現実への理解なしに、「神の見えざる手」というものだけを万能薬のごとく天下り的に信じても、駄目なのだ。
 「神の見えざる手」という概念は、人々に信じられやすい。なぜなら、その概念は、「自由」という概念と結びついているからだ。「自由は素晴らしい」と信じるとき、「自由にふるまえばうまく行く」と信じやすい。つまり、「神の見えざる手」を無批判的に信じやすい。実を言うと、好き勝手なことをすればうまく行くというのは、子供じみた発想であって、何の根拠もない。しかし甘ったれた現代人は、自由というものを神のごとく信じたがる。
 で、そのあげく、どうなるか?   「神の見えざる手」に導かれていると信じながら、「悪魔の見えざる手」に導かれることになる。正しい道を進んでいると信じながら、誤った道を進むことになる。いわば、悪魔にたぶらかされるように。
 そうだ。だからこそ、本書では警告の痛みを与えようとして、「悪魔の見えざる手」という言葉を使うのだ。人々を夢想から覚醒させるために。そしてまた、人々の耳に、真実を告げるために。
( ※ 「悪魔の見えざる手」とは何かという考察は、このあとで学術的に示す。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   古典派は「神の見えざる手」を信じて、「均衡」や「質」を重視する。
   しかし、不況のときには、「質の改善」が「量の縮小」をもたらす。
   その原理が「悪魔の見えざる手」だ。では、この原理はどういうものか?
   それを探るのが、経済学の課題である。まずは、この課題を理解しよう。
   ┗───────────────────────────────────
 

 
●第U章 ミクロ経済学の原理   
 
 ここまでになしたことは、謎の提示に相当する。このあとはいよいよ、謎の解決に踏み込もう。本章ではまず、ミクロ経済学の範囲で考える。(そのあとで、マクロ経済学に進む。)
 
■U・1 ミクロの基礎   
 
 まずは基礎を示す。すでにある「需給曲線」というモデルのかわりに、「トリオモデル」という新しいモデルを提出する。
 
◇位置づけ   
 
 最初に、位置づけをしよう。ミクロ経済学とマクロ経済学は、対比的に理解される。では両者は、どういう関係にあるか? 
 実を言うと、このことは、ミクロ経済学全体を理解したあとでわかることだ。だから、いきなりここで説明するのは、適切でない。とはいえ、最初に全体を見渡しておくと、見通しが良くなる。そこで、結論を先取りする形で、いきなり位置づけを示そう。
 ミクロ経済学とマクロ経済学は、それぞれ扱う市場によって区別されることもある。次のように。
   ・ ミクロ経済学 …… 部分市場を扱う
   ・ マクロ経済学 …… 全体市場を扱う
 この区別は、間違っているわけではないが、あまり本質的でない。本質的には、次のように区別するといい。
   ・ ミクロ経済学 …… 生産量の変動を考察しない
   ・ マクロ経済学 …… 生産量の変動を考察する
 あるいは、同じことだが、こう区別できる。
   ・ ミクロ経済学 …… 所得の効果を考慮しない
   ・ マクロ経済学 …… 所得の効果を考慮する
 景気変動では、生産量が変動する。そこでは、「所得」が影響する。その影響はたしかにある。しかし、現実にある影響を、あえて無視する立場もある。(それがミクロの立場。)
 では、なぜ? そうすれば、モデルを単純化できるからだ。論議が不正確になるとしても、モデルを単純化することには、それなりのメリットがある。──というわけで、とりあえずは便宜的に単純なモデルを使おう、という立場が、ミクロ経済学の立場だ。
 要するに、こうだ。経済現象というものは、あまりにも複雑である。複雑な経済現象のすべてを、いきなりモデル化することはできない。そこでとりあえずは単純なモデルを用いる。その後、単純なモデルを基盤として、その上に複雑なモデルに構築すればいい。こういうふうにして、
    簡略なモデル → 複雑なモデル
 という形で、
    ミクロ経済学 → マクロ経済学
 というふうに話を発展させるわけだ。本書は、この方針を取る。
 
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   「ミクロ/マクロ」は、「簡単なモデル/複雑なモデル」という関係だ。
   まずはミクロの範囲で考察し、その後にマクロの範囲に進む。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇需給曲線   
 
 ミクロ経済学の範囲で論述しよう。ミクロ経済学では、一つのモデルを提出する。これは、すべての基盤となるモデルだ。
 その前に、歴史的に、「需給曲線」というモデルがある。これは、「需要」と「供給」の関係を示すモデルである。次の図の通り。(先で掲げた図を、あらためてここに掲げる。)
 
[ 第3図(需給曲線 の図)](縦軸は価格、横軸は量)
 

 
 
 この図では、右下がりの曲線と、右上がりの曲線がある。それぞれ、「供給曲線」「需要曲線」と呼ばれる。
   ・ 需要曲線 …… 右下がりの曲線
   ・ 供給曲線 …… 右上がりの曲線
 それぞれの意味は明らかだろう。需要曲線の意味は、「価格が上がると、需要が減る」ということだ。供給曲線の意味は、「価格が上がると、供給が増える」ということだ。
 需給曲線というモデルの解釈については、詳しく説明するまでもないだろう。
 
 [ 補足 ]
 需給曲線というモデルは、正しいモデルか? 実は、間違っているというわけではないのだが、正確さに不足しているところがある。いずれ、限界が現れる。それを考察するのが本書の意図である。前もって予告する形で示しておけば、このモデルに欠けているのは、「下限直線」および「所得」である。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   ミクロ経済学では、歴史的に、需給曲線というモデルがある。
   それは、「需要」と「供給」の関係だけを示すものだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇ワルラス的均衡   
 
 需給曲線というモデルを用いると、「均衡」という概念をうまく説明することができる。それを成し遂げたのが、一九世紀後半の経済学者であるワルラスだ。
 需給曲線というモデルでは、二つの曲線の交点がある。この交点が「均衡点」である。ここに着目して、次のように説明できる。
   ・ 均衡点では、状況は安定する。
   ・ 均衡点以外では、状況は不安定になる。
   ・ 均衡点から離れれば、ひとりでに均衡点に近づく。
 こういうことを、ワルラスは数理的に解明した。そこで、この均衡を「ワルラス的均衡」と呼び、この均衡点に至る過程を「ワルラス的調整過程」と呼ぶ。
( ※ ワルラス的調整過程を説明するには、数理的な説明が必要だ。本書では、面倒なので、いちいち説明しない。とはいえ、説明はなくても、図を見れば直感的に理解できるだろう。)
 
 さて。「均衡点」を「最適状態」と解釈することにしよう。すると、「ワルラス的調整過程」とは、「放置すればひとりでに最適状態(均衡点)に達する」ということを意味する。
 というわけで、「神の見えざる手」つまり「市場原理と自由放任によって自動的に最適状態に達する」ということは、「ワルラス的調整過程」として説明されたことになる。
 
 [ 補足 ]
 「ワルラス的均衡」は、常に成立するか? 実は、成立することもあり、成立しないこともある。(つまり、古典派の説は、成立することもあり、成立しないこともある。)
 「ワルラス的均衡」とは異なるタイプの均衡として、「ナッシュ均衡」というのもある。これが成立する場合には、最適状態とは異なる均衡点で、状態が安定する。これはこれで、興味深い。とはいえ、この話は本書の範囲を逸脱するので、簡単に触れておくだけに留める。本書では、「ナッシュ均衡」という数学用語は使わないまま、その意義だけを伝えることにする。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   需給曲線を用いると、「均衡点」にひとりでに達することが説明される。
   この過程を「ワルラス的調整過程」という。(ワルラスの業績。)
   「神の見えざる手」は、「ワルラス的調整過程」として数理的に示される。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇トリオモデル   
 
 需要曲線というモデルによれば、「均衡」が必ず達成されるはずだ。(ワルラスが示した通り。)
 ところが現実には、「不均衡」という現象が発生する。つまり、モデルと現実が一致しない。そういう問題が起こった。
 
 ここで、不完全市場派の人々は、こう主張した。
 「モデル自体は正しい。ただし現実には、モデルがうまく働かなくなっている」
 この主張によれば、原理は正しいのだが、原理に対する阻害物があるせいで、原理と現実との食い違いが生じるわけだ。
 しかし、このような発想は根源的に間違っている。そのことは先に示された通りだ。(つまり、価格が高すぎるカルテルの状況では正しいが、価格が下がりすぎている不況の状況では正しくない。阻害物を除去して価格をさらに下げると、状況はかえって悪化する。)
 
 では、どうすればいいか? 不完全市場派は、「需給曲線」というモデルはそのまま採用して、解釈だけを変更した。一方、本書は、「需給曲線」というモデルを捨てる。そしてかわりに、新しいモデルを取る。このモデルを、「トリオモデル」と呼ぼう。
 「トリオモデル」とは何か? 次の図で示されるモデルだ。(一つの図になっているが、二つに分けて見てほしい。左側の図と右側の図がある。)
 
[ 第4図(トリオモデル の図)]
 

 
 トリオモデルは、需給曲線のモデルに似ているが、少し異なる。すなわち、需要曲線と供給曲線のほかに、水平線もあるのだ。この水平線は、「下限直線」と呼ばれる。ここに着目しよう。
 さて。「下限直線」と「均衡点」との位置関係によって、次の二つのタイプが生じる。
   ・ 均衡点は下限直線よりも上にある …… 左側の図
   ・ 均衡点は下限直線よりも下にある …… 右側の図
 つまり、均衡点が下限直線よりも「上にあるか/下にあるか」という違いによって、二つのタイプが生じるわけだ。そして、その二つのタイプは、二つの図で示されている。
 
 ではなぜ、二つに区別するのか? 実はこの区別が、「均衡」と「不均衡」という区別に相当するのだ。つまり、「均衡」と「不均衡」の区別は、トリオモデルにおける図形的な区別で示されるのだ。──ここに、トリオモデルの意義がある。
 具体的に示せば、こうだ。
 左側の図。──均衡点は、下限直線の上にある。均衡点から離れたところにいれば、ひとりでに均衡点に近づいて、ついには均衡点に到達する。……これは、「均衡」状態に相当する。(「需要曲線」の場合と同じ。)
 右側の図。──均衡点は、下限直線の下にある。均衡点よりもずっと上にいれば、ひとりでに均衡点に近づくが、均衡点に到達できない。なぜなら途中で、下限直線に阻止されるからだ。……これは、「不均衡」状態に相当する。
 
 特に、右側の図の方に着目しよう。この図では、均衡点に近づいても、均衡点に到達できない。なぜなら、均衡点よりもずっと上にいたあとで、均衡点に近づこうとすると、途中で、下限直線にぶつかるからだ。下限直線がいわば壁のように立ちはだかっているのだ。ここでは、下限直線が、大きな働きをしている。(「需要曲線」のモデルとは大きく異なる。)
 ともあれ、左側の図と右側の図では、均衡点と下限直線との位置関係によって、均衡点に到達することが可能か不可能かという違いが生じる。(それがどういう意味をもつかは、次項でさらに詳しく説明する。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   トリオモデルは、需要曲線と供給曲線のほかに、下限直線がある。
   下限直線と均衡点との位置関係で、二つのタイプに区別される。
   この図形的な二つのタイプが、「均衡」と「不均衡」とに相当する。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇需給ギャップ   
 
 トリオモデルでは、下限直線というものがある。下限直線のせいで、左側の図と右側の図という、二つのタイプに区別される。特に、右側の図の方が重要だ。
 右側の図では、下限直線のせいで、均衡点にうまく到達できなくなる。では、均衡点に到達できないというのは、どういうことなのか? このことを考察してみよう。
 
 トリオモデルで、右側の図を見よう。∀ 型に見える。このうち、▽ の部分に着目して、▽の各頂点を「左点」「右点」「下点」と呼ぼう。それぞれ、次のようになる。
   ・ 左点 …… 左にある点。需要曲線と下限直線の交点。
   ・ 右点 …… 右にある点。供給曲線と下限直線の交点。
   ・ 下点 …… 下にある点。需要曲線と供給曲線の交点。(均衡点)
 こうして三つの点を得た。
 さて。本来ならば、価格は均衡点の価格になるはずだ。ところが、下限直線があるせいで、価格は、下限直線の価格よりも下がらない。すると、どうなるか? 価格が十分に下がらないせいで、需要も供給も、動く範囲が制限されるのだ。
 需要は、需要曲線上を左上から右下へ動く。しかるに、価格は下限直線の位置までしか下がれないから、左点のところでストップする。
 供給は、供給曲線上を右上から左下へ動く。しかるに、価格は下限直線の位置までしか下がれないから、右点のところでストップする。
 結局、需要は左点となり、供給は右点となる。両者の量は一致しない。──これがつまり、「不均衡」という状況だ。また、このときの「右点と左点との差」にあたる量は、「需給ギャップ」と呼ばれる量に相当する。
 
 まとめてみよう。
 本来ならば、需要は需要曲線上をどんどん右下に移動して、均衡点に達するはずだ。また、供給は供給曲線上をどんどん左下に移動して、均衡点に達するはずだ。そして需要と供給は、均衡点で一致するはずだ。しかるに、下限直線があるせいで、価格があまり下がらない。そのせいで、需要も供給も、均衡点に達せない。このようにして、需給ギャップが生じる。──これが、「不均衡」が発生する原理だ。
 ここでは、「下限直線」というものが決定的に重要な役割を果たしている。そのことに注目しよう。不完全市場派の言う「阻害物」は、モデルの外部にあるものだった。しかし、トリオモデルの「下限直線」は、モデルの内部にもともと含まれているのだ。そして、均衡か不均衡かという違いは、モデルにおける図形的な違いだけで示されるのだ。
 ともあれ、「不均衡」とは何かということは、トリオモデルによって原理的に説明された。つまり、「均衡が成立する/不均衡が成立する」という違いは、下限直線と均衡点との位置関係によって、図形的に区別される。すなわち、左側の図と右側の図の場合だ。
 ここでは、不均衡の本質を理解しよう。不均衡の本質は、(下限直線のせいで)均衡点に到達しようとしても到達できないことだ。そして、その結果として、「需給ギャップ」がある。何が原因で何が結果であるかを、勘違いしないように注意しよう。
 
 [ 補足 ]
 「需給ギャップ」という言葉について説明しておく。
 「需給ギャップ」とは、すでに述べたように、「右点と左点との差」のことである。一方、現実の経済現象における「供給と需要との差」もある。これは、「生産された量と販売された量との差」であり、「在庫積み増し」の量に相当する。両者の量は、おおざっぱには、次のようになる。
   ・ 需給ギャップ …… 不況のときにはGDPの数%。(巨額)
   ・ 在庫積み増し …… 不況であれ好況であれ、ごくわずか。(小額)
 「需給ギャップ」という量は、モデル的に推算される量だ。(現実の量ではない。)
 「在庫積み増し」の量は、現実の量である。ただしこれは、技術で左右される量である。いわゆる「カンバン方式」という生産方式やPOSシステムなどを使えば、非常に小さくなる。また、景気悪化の途中では在庫は一時的に増えるが、不況のどん底では在庫はほとんど増えない。
 この二つの量は、まったく異なる。混同しないように、注意しよう。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   均衡点が下限直線よりも下にある状態が、「不均衡」の状態だ。
   その状態では、下限直線に阻止されて、価格がうまく下がらない。
   すると、需要は左点で止まり、供給は右点で止まる。
   左点と右点の差が、「需給ギャップ」だ。これは理論的な値だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇不均衡の例(三つの市場)   
 
 トリオモデルを使うと、「不均衡」を図形的に表現することができる。そこまではわかった。
 では、このモデルは、正しいモデルなのだろうか? それを知るために、このモデルを現実に当てはめて、検証してみよう。ちょうど、物理学の法則を提出したあとで、現実にうまく当てはまるか検証するように。
 さて。検証する際には、「商品市場」「金融市場」「労働市場」というふうに、市場を三種類に区別するといい。また、下限直線を意味する「下限」については、次の違いに注意しておくといい。
   ・ 商品市場で …… 商品価格には、下限としての価格がある。(= 原価)
   ・ 金融市場で …… 金利には、下限としての金利がある。(= ゼロ金利)
   ・ 労働市場で …… 賃金には、下限としての賃金がある。(= 最低賃金)
 これらのことに留意した上で、次の@ABで具体的に示そう。
 
 @ 商品市場で
 商品価格には、下限となる価格がある。つまり、原価が。──原価よりも低い価格にはならない。価格が均衡点の価格よりも高いままだと、需給ギャップが生じる。(このとき、生産力が余剰だ。つまり余剰な設備や労働者が削減される。)
 
 A 金融市場で
 金利には、下限となる金利がある。つまり、ゼロ金利が。──ゼロ金利よりも低い金利にはならない。金利が均衡点の金利よりも高いままだと、需給ギャップが生じる。(このとき、資金が余剰だ。つまり流動性の罠。)
 
 B 労働市場で
 賃金には、下限となる賃金がある。つまり、最低賃金が。──最低賃金よりも低い賃金にはならない。すると、市場の賃金が均衡点の賃金よりも高いままだと、需給ギャップが生じる。(このとき、労働者が余剰だ。つまり失業発生。)
 
 これらの@ABのいずれでも、事情は同様だ。何らかの下限があり、その下限よりも価格が低くならないせいで、需給ギャップが生じる。──そういうことが、うまく説明される。
 かくて、「下限直線によって不均衡を説明するモデル」であるトリオモデルは、妥当なモデルである、ということが検証されたことになる。
 
 [ 補足 ]
 不完全市場派の主張が間違っていることも、以上の話からわかる。
 @ 商品市場
 商品が供給過剰になったとき、不完全市場派ならば、「もっと商品価格を下げよ」と命じるだろう。しかし、商品価格は下限以下にならない。なぜなら、生産者は、原価割れで生産して、大幅な赤字を出すよりは、何も生産しない方がマシだからだ。──ここでは供給者自身が、あえて価格を下げないのだ。(商品市場の阻害物のせいではない。)
 A 金融市場
 資金が供給過剰になったとき、不完全市場派ならば、「もっと市場金利を下げよ」と命じるだろう。しかし、市場金利は下限以下にならない。なぜなら、ゼロよりも低いマイナスの金利で金を貸して、赤字を出すよりは、金を貸さない方がマシだからだ。(銀行なら、金を倉庫で眠らせる。家計なら、タンス預金する。)──ここでは貸し手自身が、あえて貸し出し金利を下げないのだ。(金融市場の阻害物のせいではない。)
 B 労働市場
 労働力が供給過剰になったとき、不完全市場派ならば、「もっと賃金を下げよ」と命じるだろう。しかし、賃金は下限以下にならない。なぜなら、最低賃金以下で働くよりは、何もしないで寝ている方がマシだからだ。──ここでは労働者自身が、あえて低賃金労働を拒むのだ。(労働市場の阻害物のせいではない。)
( ※ なお、ここで言う「最低賃金」には、いろいろな意味がある。労働制度としての最低賃金や、社会保障としての生活保護費や、最低生活費だ。特に、最低生活費が大事だ。これ以下の賃金しか得られないときには、賃金を得ても、餓死するになる。働いて餓死するよりは、働かないで餓死する方がマシだ。たとえば、月給がわずか百円だとしたら、百円で雇用されても、餓死するだけだ。どうせ餓死するなら、それよりは、働かないで餓死した方がマシである。ゆえに、「賃金を十分に下げれば全員が雇用される」という主張は、成立しないわけだ。──ただし不完全市場派は、「餓死してもいいから、とにかく低賃金で働け。そうすれば、たとえ餓死しても、失業は解決するぞ」と主張する。本末転倒。)
 
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   「商品市場」「金融市場」「労働市場」のそれぞれに、下限がある。
   下限の種類は異なっても、下限直線としての働きは同じである。
   下限直線のあるトリオモデルは、不均衡をうまく説明する。
   ┗───────────────────────────────────
 
■U・2 不均衡という状態   
 
 不均衡とはどういう状態なのか? この問題をめぐって、モデル的にさらに詳しく考察しよう。
 
◇相反する力   
 
 「不均衡とは何か?」という問題には、すでに答えた。すなわち、「下限直線があるせいで、均衡点に到達しようとしても到達できない」という状態のことだ。(「需給ギャップ」は、その結果だ。)
 さて。「不均衡とは何か?」がわかると、さらに不均衡について知りたくなる。つまり、「不均衡とは、どういう状態なのか?」という問題について探りたくなる。本節では、この問題をめぐって、モデル的に考察しよう。
 
 まず、「神の見えざる手」について考えよう。「均衡」の状態では、「神の見えざる手」の力はしっかり働いている。では、「不均衡」の状態では、どうか? 「均衡」でなく「不均衡」になっているとしたら、そこでは、「神の見えざる手」の力が働いていないのだろうか?
 不完全市場派ならば、「その通り」と答えるだろう。「不均衡になっているのは、均衡にするための力が正常に働いていないからだ」と。──しかし、実は、そうではない。均衡にするための力は、「不均衡」の状態でも、やはり働いているのだ。
 トリオモデルでは、次のように発想する。
 「『神の見えざる手』の力は、不均衡の状態でも働いている。ただし、その力が働いていても、下限直線に阻止されるせいで、うまく均衡点に達せない」
 では、下限直線に阻止されるとは、どういうことなのか? この件を、モデル的に考察してみよう。
( ※ なお、モデルでなく現実レベルの話では、具体的な例を先に示した。つまり、三つの市場のそれぞれで、どうして価格が下がらないかを、それぞれの場合ごとに示した。下限の意味は市場ごとに異なるが。)
 
 モデル的に考えよう。「神の見えざる手」の力が働いているのに、下限直線に阻止される、ということがある。それは、どういうことか? それは、「その力が働くが、同時に、逆の力が働いているので、たがいに相殺する」ということだ。
 では、逆の力とは? ここで、対比的に表現することにしよう。次のように。
   ・ 下向きの力 (均衡点に近づけようとする力)
   ・ 上向きの力 (均衡点に近づけまいとする力)
 「下向きの力」とは、均衡点に近づこうとする力である。これは、「神の見えざる手」の力である。
 「上向きの力」とは、均衡点に近づけまいとする力である。これは、何か?
 
 実を言うと、「下向きの力」と「上向きの力」は、対称的に働くものではない。それぞれ、別の原理によって働く。
 「下向きの力」とは、「ワルラス的調整過程」の力だ。これは、市場において働く力だ。市場メカニズムの力である。
 「上向きの力」は、「下限以下には価格を下げまい」という力だ。これは、市場にメカニズムとして働く力ではなくて、市場参加者ごとに個別事情として働く力だ。たとえば、次のように。
   ・ 生産者は原価以下では売りたくない
   ・ 銀行はゼロ金利以下では融資したくない
   ・ 労働者は最低賃金以下では働きたくない 
 こういうふうに、「下限以下には価格を下げたくない」という意図が生じる。この意図は、それぞれの市場参加者ごとに、それぞれの個別事情で決まるものだ。また、市場メカニズムの力のような「見えざる力」ではなくて、市場参加者があえてそう意図している「見える力」である。
 
 この力は、個別事情で生じる。とすれば、個別事情に依存する。たとえば、金持ちの道楽としての事業であれば、損を覚悟して非常に低い価格に設定できる。(例。売れない詩集を無料で配る。文化祭のバザーで安値販売する。)また、愚かな経営者なら、不完全市場派の経済学者の主張にしたがって、「需給を均衡させよう」と狙って、原価割れの低い価格に設定する。(ただし、大幅赤字を出して倒産してしまうが。)
 こういうふうに、下限よりも低い価格に設定することがある。というわけで、「上向きの力」は、「下向きの力」のように、必ず働くわけではない。個別事情によって、働いたり働かなかったりするのだ。
 結局、「上向きの力」は、「下向きの力」と比べて、同じ強さで相殺することもあるし、弱くなって劣性になることもあるし、ほとんどゼロになって圧倒されることもある。いろいろな場合があるわけだ。個別事情で。
 
 ともあれ、市場においては、「下向きの力」と「上向きの力」という二つの力が、それぞれの事情でともに働いている。決して、片方だけがあるわけではない。このことに注意しよう。
( ※ 古典派は、二つのうち、「下向きの力」だけを見て、「上向きの力」を無視する。そこに古典派の難点がある。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   不均衡の状態では、「下向きの力」と「上向きの力」がともに働いている。
   前者は、均衡点に向かう力である。これは常に働く。
   後者は、価格の過度な低下を避ける力だ。これは働かないこともある。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇メリット・デメリット   
 
 「下向きの力」と「上向きの力」については、すでに示した。前者の力は、市場において常に働く。後者の力は、個別事情によるので、働くことも働かないこともある。
 では、それぞれの力の本質は、何か? 実は、「メリット」「デメリット」という言葉を使うと、次のように対比的に示せる。
   ・ 下向きの力 …… 市場がメリットを受けようとする力
   ・ 上向きの力 …… 市場参加者がデメリットを避けようとする力
 「下向きの力」とは、市場がメリットを受けようとする力である。そのメリットは、市場に発生して、市場が受ける。「上向きの力」は、市場参加者がデメリットを避けようとする力である。そのデメリットは、市場参加者に発生して、市場参加者が(自分が受けるのを)避けようとする。──ここでは、メリットとデメリットは、それぞれ別の場で働くのだ。そのことに注意しよう。
 
 さて。メリットとデメリットは別の場で働くが、それらからもたらされる力は、同じ場で働く。すなわち、「下向きの力」と「上向きの力」というふうに、同じ次元の相反する力となる。
 では、この相反する力の差し引きは、どうなるのか? 「下向きの力」と「上向きの力」のどちらが勝るのか? ──それは、ケースバイケースである。その結果、次のようになる。
   ・ 上向きの力が勝るとき …… 市場価格は下限よりも高くなる
   ・ 下向きの力が勝るとき …… 市場価格は下限よりも低くなる
 前者の場合、価格が低くならないせいで、「需給ギャップ」が発生する。つまり、不均衡になる。この件は、すでに述べたとおり。
 後者の場合、価格は低めになる。この状況を、「下限直線割れ」と呼ぼう。これについては、次項で述べる。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   「下向きの力」は、市場のメリットをもたらす力だ。
   「上向きの力」は、市場参加者のデメリットを避けようとする力だ。
   メリットとデメリットは別の場で生じるが、二つの力は同じ場で働く。
   二つの力の差し引きで、「需給ギャップ発生」か「下限直線割れ」となる。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇下限直線割れ   
 
 市場価格が下限よりも低くなることがある。この状況を、「下限直線割れ」と呼ぼう。
 下限直線割れについては、二つの疑問が湧くはずだ。
   ・ 下限直線割れという現象は、なぜ起こるのか? (理由)
   ・ 下限直線割れという現象は、良いことか悪いことか? (評価)
 この二つについて、順に説明しよう。
 
 @ 下限直線割れの理由
 下限直線割れが起こるのは、「下向きの力」が強い場合だ。これは、現実レベルでは、「市場競争が激しい」という場合に相当する。
 生産者は本来、赤字を出してまで販売したくない。しかし、あまりにも競争が激しい市場では、価格の低い方が完勝し、価格の高い方が完敗する。負けた方は倒産する。というわけで、生産者はたがいに競争しながら、価格をどんどん過度に下げていく。
 結果的には、それぞれが最悪を避けようとしたすえに、全員が最悪に落ち込んでいく。
 
 A 下限直線割れの評価
 下限直線割れの良し悪しを、評価してみよう。
 まず、価格低下というものについて評価しよう。価格低下の良し悪しは、そのときの状況しだいである。次のように。
   ・ 価格が下限以上のときには、良い
   ・ 価格が下限以下のときには、悪い
 こういうふうに、状況しだいで、良し悪しの差が出る。差が出る理由は、次の通り。
 まず、価格低下それ自体は、良くも悪くもない。売り手と買い手の双方を見よう。価格低下は、売り手にとっては損だが、買い手にとっては得である。一方は五の損で、他方は五の得。差し引きはゼロだ。この意味では、価格が上がろうと下がろうと、国民全体としては損得はない。ただし、損得とは別の意味で、良し悪しが発生する。
 第1に、価格が下限以上の場合。この場合には、赤字企業から順に倒産するだけだ。つまり、「劣者退場」が起こる。これは、劣者と優者の交替を通じて、全体に「質の向上」をもたらす。──ゆえに、価格低下は良い。
 第2に、価格が下限以下の場合。この場合、大半の企業が赤字となるので、大半の企業が倒産を迫られている。ここでは、「劣者退場」ではなくて、「全員退場」が迫られている。価格がさらに下がれば、状況はいっそうひどくなる。──ゆえに、価格低下は悪い。
 さて。話を戻そう。そもそも問題となったのは、下限直線割れの良し悪しだ。そして、下限直線割れが起こる状況は、価格が下限以下になる状況、つまり、第2の場合である。──とすれば、「下限直線割れは悪い」と言える。これが結論だ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   下限直線割れが起こるのは、「市場競争が激しい」という場合だ。
   下限直線割れは、赤字を出すほどの価格低下だ。それは、悪いことだ。
   なぜならそのとき、劣者退場でなく全員退場の形で、倒産が生じるからだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇強引な均衡   
 
 前項で述べたことは、次の二つだ。
   ・ 市場競争が激しいと、下限直線割れが起こる。
   ・ 下限直線割れは、悪いことだ。
 これを一つにまとめれば、「過当競争は悪い」と言える。通常の競争ならば、良い。しかし、すべての社が倒産に至るほどの過度な競争は、悪い。つまり、「競争は常に善である」ということはないのだ。
 さて。過当競争は悪いとすれば、過当競争をしなければいいのか? その通り。ただしこのことは、市場参加者である各企業の意思では決まらない。市場はもともと、次の二つのいずれかだ。
   ・ 市場競争が緩い場合
   ・ 市場競争が激しい場合
 どちらかの市場が、もともとある。それぞれの企業は、その市場のなかで行動するしかない。具体的には、次のように。
 
 @ 市場競争が緩い場合
 市場競争が緩い場合にはどうか? 
 価格が下限よりも低くなると、企業にとってはデメリットが生じる。企業はそれをいやがる。ゆえに、上向きの力が生じる。
 ここで、市場競争が緩ければ、下向きの力が弱いので、価格は下限のあたりに張りついている。つまり、価格が下限よりも低くなることはない。
 これは、普通の場合だ。この場合、企業にとってはデメリットが最小だが、市場にとってはメリットが最小になっている。つまり、「神の見えざる手」はうまく働いていない。(「需給ギャップ」が生じている。)
 
 A 市場競争が激しい場合
 市場競争が激しい場合にはどうか? 
 価格が下限よりも低くなると、企業にとってはデメリットが生じる。企業はそれをいやがる。ゆえに、上向きの力が生じる。
 ここで、市場競争が激しければ、下向きの力が強いので、企業がいやがっても、価格は下限よりもどんどん低くなっていく。では、どういうふうに? 
 企業としては、赤字を出したくない。しかるに、市場競争が激しい場合には、少しでも価格の低い方が完勝し、少しでも価格の高い方が完敗する。というわけで、否応なしに、企業は価格を下げざるを得ない。(もし価格を下げなければ、シェアのすべてを失って、すぐに倒産する。)
 これは、過当競争の場合だ。この場合、企業にとってはデメリットが最大だが、市場にとってはメリットが最大になっている。つまり、「神の見えざる手」が過度に働いている。(「需給ギャップ」が縮小していき、ついには均衡に達するだろう。)
 
 この@Aを比べよう。@の場合には、均衡が達成されずに、「需給ギャップ」がある。それはそれで、困った状態だ。Aの場合には、均衡が達成されて、「需給ギャップ」が縮小していく。それはそれで、良いことだ。ただしそれは、市場にとって良いだけで、企業にとっては悪い。全体としてみれば、もちろん悪い。(前項で「下限直線割れ」を評価したとおり。)
 さて。Aの場合には、均衡が達成されることもある。それを、「強引な均衡」と呼ぼう。「強引な均衡」は、悪いことだ。避けることができるのなら、避けた方がいい。しかし、避けることができるかどうかは、各企業の意思では決まらない。市場競争が激しい場合には、否応なしに、「強引な均衡」という状態に導かれてしまうのだ。
 
 [ 補足 ]
 なぜそうなるのか? この問題は、数学的に「ナッシュ均衡」という用語で説明される。市場競争が緩いか激しいかは、全体状況だ。全体状況がどうであるかは、一人一人の各人には決められない。ただし、全員がそろって同じ行動を取ることにすれば、(過当競争という)全体状況を改めることもできる。
 なお、過当競争が続くと、どうなるか? 各人は、自分にとっての最悪を避けようとする(価格を下げる)が、その結果、かえって最悪の状況になる(価格が下がりすぎる)。つまり、最悪を避けようとして、かえって最悪を招くことになる。(それがナッシュ均衡の状況だ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   市場競争が激しいと、価格が過度に低くなる。(過当競争の状態。)
   そこでは、企業のデメリットが最大になる。
   企業は、それを避けたいが、企業には、避ける選択肢がない。
   市場競争の強弱は、市場によって決まり、企業が左右できないからだ。
   市場競争が強い状況では、無理に均衡点へ近づく。(強引な均衡)
   ┗───────────────────────────────────
 
◇悪魔の見えざる手(ミクロ)   
 
 前項までの話から、「悪魔の見えざる手」とは何かが、ようやく判明する。
 「神の見えざる手」は、もともと、市場を最適化する力だった。その力は、「ワルラス的調整過程」の力であり、均衡点へ近づけようとする力だった。
 ところが、市場には、二つの状況がある。それはトリオモデルでは、図形的に区別されて示される。すなわち、「左側の図」と、「右側の図」だ。この両者は、均衡点が下限直線よりも「上」にあるか「下」にあるか、という違いがある。
 「左側の図」は、通常の場合だ。つまり、均衡点の価格が原価を上回る場合だ。──この場合、「神の見えざる手」は市場の状況を最適化する。(古典派の示すとおり。)
 「右側の図」は、不況の場合だ。つまり、均衡点の価格が原価を下回る場合だ。──この場合、倒産や失業という形で、大きなデメリットを市場参加者にもたらす。このときには、「神の見えざる手」は、状況を最適化するどころか悪化させる。
 均衡点に近づける力は、通常の場合も、不況の場合も、同じ力である。しかし同じ力であっても、状況によって効果が異なる。通常の場合なら、状況を最適化するので、それは「神の見えざる手」となる。不況の場合なら、状況を悪化させるので、それは「悪魔の見えざる手」となる。──同じものが、状況に応じて、「神の見えざる手」となったり、「悪魔の見えざる手」となったりする。
 これが「悪魔の見えざる手」の正体だ。(ミクロ的に。)
 
 「悪魔の見えざる手」の正体はわかった。それは「ワルラス的調整過程」の力である。ただしその力が、状況によって、良くも悪くもなる。
 とすれば、「悪魔の見えざる手」と「神の見えざる手」とを混同してはならない。このことが大切だ。
 古典派は「神の見えざる手」ばかりを信じる。「均衡点に達すれば状況は最適化する」とだけ主張する。しかし、その主張が成立するのは、通常の場合に限られるのだ。不況の場合には、その主張のようにはならない。不況のときは、価格が原価割れとなる。この状況では、価格をさらに下げて、均衡点に近づこうとすれば、状況は改善するどころか悪化してしまう。なぜなら、大幅な赤字が生じるせいで、倒産や失業が大幅に発生するからだ。「劣者退場」のかわりに「全員退場」というふうになるからだ。──結局、古典派の主張が成立するのは、下限直線割れが起こらない場合に限られるのだ。
 古典派の主張が正しいのは、一定の状況に限られる。その状況では、古典派の主張は正しい。ただし、その状況以外では、古典派の主張は正しくない。──そう理解することが大切だ。さもないと、両者を混同する。あげく、不況のさなかで、なしてはならないことを主張するようになる。たとえば、「競争を激化させよ」とか、「供給力を向上させよ」とか。……そういう処方は、「神の見えざる手」を強める処方である。そういう処方は、通常の場合には正しいが、不況の場合には正しくない。なぜなら、不況の場合には、「神の見えざる手」は「悪魔の見えざる手」に変じているからだ。その力を強めれば強めるほど、状況はかえって悪化してしまうのだ。
 かくて、「悪魔の見えざる手」と「神の見えざる手」を区別することで、「何をなしてはならないか」ということが判明する。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   均衡点に近づこうとする力は、状況しだいで異なる。
   通常の場合には状況を改善するが、不況の場合には状況を悪化させる。
   同じ力が、「神の見えざる手」ともなり、「悪魔の見えざる手」ともなる。
   同じものが、状況しだいで異なる姿を取る。その違いを知るべきだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
■U・3 動的なミクロ   
 
 ミクロのモデルを、静的なモデルから動的なモデルへと、拡張する。
 
◇方針   
 
 「悪魔の見えざる手」の正体は、すでに判明した。「何をなしてはならないか」も、判明した。
 しかし、「何をなすべきなのか」はまだ判明していない。不況のときには、何をなすべきか? 不況への対策として、どんな処置を取ればいいのか? ──実は、この問題への解答は、ミクロでなくマクロで明らかになる。
 ただし、ミクロとマクロとは、まったく別のことではない。ミクロからマクロへと、話はつながるのだ。その「つなぎ」としての話を、本節では示そう。
 すでにミクロのモデルとして、トリオモデルを示した。これは、「需給曲線」というモデルに、「下限直線」という第三の要素を追加したものだ。
 ここで、本章の最初に述べたことを思い出そう。ミクロのモデルは、事情を単純化している。複雑な現実を示すのに、いきなり複雑なモデルを出すわけには行かないから、事情を単純化して、単純なモデルを提出する。そのモデルが、ミクロのモデルだ。
 さて。ミクロのモデルの話がいったん済んだあとで、「単純化」という制約をはずすことにしよう。
 そもそも、前節では、話をどういうふうに単純化したか? それは、「時間の要素を無視する」という単純化だ。現実の現象は、時間のなかで動的に変化する。しかし、ミクロのモデルは、時間のなかで静的に無変化である。──そういう単純化があったのだ。(今になって、ようやく打ち明けるのだが。)
 そこでモデルを、時間のなかで動的に変化させよう。そういうふうに、話を拡張しよう。──それが本節でなすことだ。というわけで、以後は、「静的なモデルから動的なモデルへ」という方針で、考察していこう。
( ※ なお、そういう方針がなぜ必要かということは、次項で示す。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   前節で示したトリオモデルは、事情を単純化して、静的にとらえたものだ。
   本節では、「時間」という要素を考慮して、動的な変化を考察する。
   つまりトリオモデルを、静的なものから動的なものへと拡張する。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇動的な認識   
 
 以後では、トリオモデルを動的に拡張する。ではなぜ、そうするのか? 実は、そうすることによって、大切なことがわかるのだ。──そもそも、次の問題がある。
 「『神の見えざる手』から『悪魔の見えざる手』へ、どういうふうに転じるのか?」
 この問題は、次の形に置き換えていい。
 「トリオモデルにおいて、左側の図から右側の図へと、どういうふうに転じるのか?」
 これはさらに、次の形に置き換えていい。
 「均衡点が、下限直線の上方から下方へと移動するのは、どうしてか?」
 これに答えたい。そのためには、トリオモデルで「時間」という要素を考慮することが必要だ。
 
 ここまでの話を大きくまとめてみよう。こう言える。
 「悪魔の見えざる手」と「神の見えざる手」とは、同じものである。ただし、状況によって同じものが、「神の見えざる手」から「悪魔の見えざる手」へと転じる。では、どういうふうに転じるのか? それを探りたい。
 それを探るには、「状況によって」という部分を調べればいい。同じ力が、Aという状況では「神の見えざる手」となり、Bという状況では「悪魔の見えざる手」となる。とすれば、状況がAからBへと変化するのは、なぜなのか? そのわけを知りたい。
 さて。Aという状況と、Bという状況は、トリオモデルにおいて二つのタイプとして図形的に示される。AからBへという変化は、トリオモデルにおける動的な変動として図形的に示される。
 そうだ。だからこそ、トリオモデルにおける動的な変動(図形的な変化)が、どういうふうに生じるかを、探りたいわけだ。神が悪魔に転じる理由を、知るために。
 
[ 補足 ]
 トリオモデルにおいて動的な変動を理解すること。これは、実は、非常に重要である。なぜか? さもないと、とんでもない勘違いを起こしかねないからだ。その悪例が、古典派の勘違いである。
 古典派は、静的なモデルを取る。つまり、「需要曲線も供給曲線も変動しない」ということを前提にしている。その前提のもとで、「均衡点に到達することで、状況が最適化される」と論理的に結論する。「ワルラス的調整過程」という原理を説明するときにも、この前提のもとで説明する。
 しかしこの前提は、現実には当てはまらないのだ。なぜなら、需要曲線も供給曲線も、動的に変動するからだ。──古典派は、成立しない前提を、成立すると仮定したあと、ありもしない仮定の上で、勝手に話を進めている。(砂上の楼閣のようなものだ。)
 なお、「需要曲線と供給曲線は変動する」ということの理由は、あとでマクロ的に説明される。ただし、今はまだ、変動の理由について知らなくてもよい。「需要曲線と供給曲線は変動する」ということだけを、理解しておけばよい。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   「神の見えざる手」から「悪魔の見えざる手」へという変化。
   その変化を探るには、トリオモデルで、動的な変動を考察すればよい。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇変動のタイプ   
 
 トリオモデルにおいて、動的な変動を考えよう。
 動的な変動を考えるには、どうすればいいか? モデルの三要素である「需要曲線」「供給曲線」「下限直線」について、それぞれがどう変動するかを考えればよい。
 この三つはそれぞれ、上下方向または左右方向に変動する。特に「不況」のような「景気悪化」の場合には、次の方向の変動を考えればよい。
   ・ 需要曲線が左に移動する (左シフト)
   ・ 供給曲線が右に移動する (右シフト)
   ・ 下限直線が上に移動する (上シフト)
 この三通りがある。いずれも「景気悪化」を引き起こす。すなわち、各要素が変動するにつれて、均衡点が、上方から下方へとだんだん移動していく。そしてついには、均衡点が下限直線の下にもぐりこむ。つまり、「下限直線割れ」が生じる。
 こういうことは、トリオモデルの図を見ながら理解してほしい。たとえば、「需要曲線が左に移動すると、均衡点がどういうふうに移動するか」ということを、図を見ながら理解してほしい。(左側の図から右側の図へと、だんだん変化する。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   トリオモデルにおける動的な変動には、次の三通りがある。
   「需要曲線の変動」「供給曲線の変動」「下限直線の変動」
   それらの変動にともなって、均衡点がだんだん移動する。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇需要の変動   
 
 トリオモデルの変動には、「需要曲線の変動」「供給曲線の変動」「下限直線の変動」という三通りがある。
 では、三通りのすべてを考慮すべきか? 厳密には、そうだ。ただし、三通りのうちで重要なのは、「需要曲線の変動」だけである。「供給曲線の変動」と「下限直線の変動」は、あまり重要でない。では、なぜ? その理由を、ざっと説明しよう。
 
 モデルを現実に対応させれば、「需要曲線の変動」「供給曲線の変動」「下限直線の変動」は、「需要の変動」「供給の変動」「下限の変動」に相当する。後者の三つは、現実の現象だ。それぞれ評価しよう。
 第1に、「需要」。──需要はしばしば大きく変動する。たとえば、消費ブームが起これば消費が増えるし、倹約ブームが起これば消費は減る。また、公共投資や民間投資も、それぞれの事情で大きく変動することがある。(財政政策や金融政策。)
 第2に、「供給」。──供給はあまり大きく変動しない。たとえば、一国全体の機械設備を一挙に5%ほどアップさせようとしても、そんなことはとうてい困難だ。また、一国全体の労働者を一挙に5%ほどアップさせようとしても、そんなことはまったく不可能だ。(ただし、増やすことはできなくとも、逆に、減らすことはできる。たとえば、戦争や大地震があれば、一国全体の生産設備が激減することもある。とはいえ、このような破壊活動は、経済学の問題ではない。特に、景気変動の問題ではない。だからここでは議論の対象とならない。)
 第3に、「下限」。──下限としての「原価」は、あまり大きく変動しないものだ。なお、「生産性の向上」という形で、年に2%〜3%程度の向上はあるが、この向上そのものは、毎年ほぼ一定の率でなされるのだから、そのときそのときで急激に向上の幅が変動することはない。というわけで、中短期的には、原価の変動はあまり考慮しなくてよい。
 
[ 補足 ]
 以上では、「商品市場」に限って説明したが、「労働市場」でも事情は同様である。ただし「金融市場」では、事情が異なる。金融市場では、資金の「供給」を大幅に変動させることができるのだ。その意味で、「供給の変動」を無視するべきではない。
 とはいえ、資金の「供給」の変動を扱うのは、「金融問題」という分野の話となる。というわけで、金融問題の話はひとまず脇にのけておこう。本書では主として、商品市場における変動を考慮する。その場合には、「需要の変動」だけを考慮すればよい。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   ミクロの動的な変動では、「需要曲線の変動」だけを考慮すればよい。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇消費の変動   
 
 需要曲線の変動は、なぜ起こるか? それについて考えてみよう。
 トリオモデルにおける「需要曲線の変動」は、現実経済における「需要の変動」に相当する。ここで、需要というものは、次の四つに分類される。
   ・ 消費
   ・ 政府投資
   ・ 民間投資
   ・ その他
 では、四つのすべてを考慮すべきか? 厳密には、そうだ。ただし重要なものは、「消費の変動」だけである。他の三つは、あまり考慮しなくてよい。では、なぜ? その理由をざっと説明しよう。
 
 まず、比率から言おう。「消費」(個人消費)は、GDPの6割ほどを占める。つまり大半だ。消費がかなり低下している不況期でさえ、55%ほどある。消費の伸びた好況期では、もっと多い。一方、「政府投資」や「民間投資」は、ずっと比率が小さい。また、四番目の「その他」というのは、政府の一般支出などだが、これもずっと比率は小さい。というわけで、「消費」が圧倒的に重要だ。
 
 次に、変動の量だ。「消費」というものは、景気変動につれて、大きく変動する。(理由は省略するが、そのことが統計的に判明している。)ゆえに、無視できない。一方、四番目の「その他」は、景気変動にかかわらず、ほぼ一定だ。ゆえに、無視してよい。
 問題は、「政府投資」と「民間投資」だ。この二つは、ある程度は変動する。ただし、その変動の仕方は、独立変数としての変動なのだ。「政府投資」が増えるかどうかは、景気と直接的には関係せず、政府の財政政策によって決定される。「民間投資」が増えるかどうかは、景気と直接的には関係せず、中央銀行(日銀)の金融政策によって決定される。その意味で、景気変動のさなかでは、「独立したもの」「一定であるもの」と仮定していい。(それが「モデルにおける独立変数」ということの意味。)
 
 以上のことから、モデルにおける「需要曲線の変動」を動的に考えるときには、「需要の変動」として「消費の変動」だけを見ればいい、とわかる。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   「需要の変動」を動的に考えるときは、「消費の変動」だけを見ればよい。
   ┗───────────────────────────────────
 
■U・4 変動の理由   
 
 トリオモデルの変動が起こる理由について、考察する。変動をもたらすものは、「原因」なのか「構造」なのか? 
 
◇方針   
 
 ここまでの話を整理してみよう。
 「神の見えざる手」から「悪魔の見えざる手」という転化が生じることがある。なぜその転化が起こるかを知るには、トリオモデルで動的な変動を考えればよい。その際、「需要の変動」だけを考えればよい。その際、「消費の変動」だけを考えればよい。
 
 とすれば、「消費の変動はなぜ起こるか?」が、残る問題となる。この問題に対して、どう答えるべきか? 古典派ならば、「原因を探ればいい」と思うだろう。しかし、この発想は正しくないのだ。
 以下では、この発想のどこが正しくないかを示し、かわりにどんな発想を取ればいいかを示す。
( ※ これは、経済学の問題というよりは、発想法の問題である。とにかく、マクロ的な話を展開する前に、発想法そのものを根本的に再構築する必要がある。)
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   トリオモデルの動的な変動は、「消費の変動」という形で起こる。
   「消費の変動」がいかに起こるかを、このあと考えていきたい。
   ただしまずは、根本的な発想法について論じる。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇原因と構造   
 
 「消費の変動」がいかに起こるかを、このあと考えていきたい。ただしその前に、発想法を論じておこう。
 ある現象が起こるとする。これについて、「なぜ?」と問われると、人は「これが原因だ」と答えることが多い。たとえば、次のように。
   ・ 「地震が起こるのは?」 ← 「地殻のズレが原因だ」 
   ・ 「子供が泣いたのは?」 ← 「転んだのが原因だ」 
 この場合には、「結果 ← 原因」という関係が見出せる。つまり、現象には原因がある。では、常にそうなのか? あらゆる現象には、必ず原因があるのか? 
 実は、そうではない。現象の起こり方には、二種類ある。次のように。
   ・ 原因
   ・ 構造
 この二種類がある。そのどちらの発想を取るかによって、それぞれの立場を、「原因説」「構造説」と呼ぼう。(本書における呼び方だが。)
 第1に、「原因説」。これによれば、現象には「原因」があるはずだ。事実を解明するには、「原因」が何であるかを探ればよい。
 第2に、「構造説」。これによれば、現象は外部にある「原因」によって生じるのではなく、内部にある「構造」によって生じる。事実を解明するには、「構造」がどんなものであるかを探るべきだ。
 
 例示的に示そう。「風邪を引く」という現象がある。この現象に対して、二つの立場から、それぞれの解釈が生じる。次のように。
 「原因説」……「風邪には、原因がある。それは、ウィルスである。風邪をなくすには、原因となるウィルスをなくせばよい。結局、風邪への対策は、風邪ウィルスのすべてを地上から消滅させることである。そうすれば、風邪の原因がなくなるので、誰も風邪を引かなくなる。」
 「構造説」……「風邪の最初には、ウィルスがある。ただし最初のウィルスだけでは、小量すぎて、風邪の症状は出ない。風邪を引くとしたら、風邪の症状が出るのは、ウィルスが体内で大幅に増殖したからだ。その理由は、免疫力の低下だ。ゆえに、風邪を引かずに済むには、各人が免疫力を高めればよい。そうすれば、ウィルスが体内で増殖する構造が阻まれるので、各人は風邪を引かなくなる。」
 ここでは、例示的に示した。ともあれ風邪については、この二通りの立場がある。そして、経済についても、この二通りの立場があるのだ。「原因説」と「構造説」とが。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   ある現象の理由を探るときの立場には、「原因説」と「構造説」がある。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇原因説   
 
 「原因説」と「構造説」のうち、まずは「原因説」について示そう。
 「不況はなぜ起こるのか?」という質問に、「何らかの原因があるからだ」と答えるのが原因説だ。
 では、原因とは? その質問には、それぞれの学派が「原因はこれだ」と主張する。いずれも、もっともらしく思える主張だ。しかし、そのいずれも正しくないのだ。この件は、すでに述べたとおりだが、あらためて「原因説」の形で、まとめてみよう。次の@ABで個別に示す。
 
 @ サプライサイドの原因説
 サプライサイドによれば、不況の原因は「質の悪化」であり、不況への対策は、「質の改善」である。
 この解釈では、不況とは、企業の収益性が悪化した状態のことだ。そうなった原因は、企業の「質の悪化」だ。(たとえば、生産性の低下。)とすれば、不況への対策は、「質の改善」だ。(たとえば、生産性の向上。)
 サプライサイドの発想は、景気変動の理由を個別企業に帰している。つまり、「不況が起こったのは、個別企業のせいだ」と。となると、「不況というのは、全産業の全企業がいっせいに収益悪化している状況であり、全産業の全企業がいっせいに質的に劣化した状況だ」ということになる。
 しかるに、全産業の全企業がいっせいに質的に劣化するということなど、ありえないのだ。そもそも不況の原因を、個々の企業に帰することはできないのだ。マクロ的な現象を、個別企業の責任に帰しても、お門違いなのだ。(責任転嫁と言ってもよい。)
 また、サプライサイドの主張には、論理的な矛盾もある。仮に、「生産性の悪化」があったとしよう。ならば、供給不足になって、物価上昇が起こるはずだ。しかるに実際には、物価下落が起こる。矛盾。……また、対策も同様だ。「生産性の向上」をすれば、もともと供給過剰の状況で、ますます供給過剰になり、ますます需給ギャップが大きくなる。これでは、状況を改善するどころか、状況を悪化させる。矛盾。
 かくて、サプライサイドの原因説は、現実的にも論理的にも破綻する。
 
 A 不完全市場派の原因説
 不完全市場派によれば、不況の原因は(市場の)「阻害物」であり、不況への対策は「阻害物の除去」である。
 この解釈では、不況とは、市場原理がうまく働いていない状況だ。つまり、「本来ならば市場原理によって、均衡点に達するはずなのだが、市場に阻害物があるせいで、均衡点に達せない。ゆえに、不況への対策は、阻害物を除去することだ」となる。
 しかし、この主張は成立しない。なぜか? 不完全市場派の発想では、「均衡点こそ最適状態である」ということが前提にされているが、しかし、不況のときには、均衡点に近づけば近づくほど、状況は悪化するのだ。仮に、不完全市場派の主張に従って、競争を激化させて、価格を低下させれば、どうなるか? なるほど、均衡は実現するだろう。しかし同時に、企業の赤字幅は極端に大きくなって、倒産や失業が続出する。
 不完全市場派の対策は、いわば、「自殺をせよ」ということだ。「風邪を引いていて、風邪がどんどん悪化するのか。だったら、自殺してしまえ。そうすれば、もうこれ以上は悪化しなくなる。つまり、均衡する」と。その主張は、論理的は正しい。死んでしまえば、均衡が達成される。しかしそれでは、本末転倒だろう。いくら均衡が達成されても、最悪状態になっては、何にもならない。
 「均衡点こそ最適状態である」という発想が、そもそも根源的に間違っているのだ。経済的な意味での自殺は、不完全市場派の学者にとっては「成功」だが、国民にとっては「失敗」だ。
 かくて、不完全市場派の原因説は、論理的は成立するとしても、本末転倒になっている。「病気は治りました、患者は死にました」ということだ。
 
 B マネタリストの原因説
 マネタリストによれば、不況の原因は「貨幣量の減少」であり、不況への対策は「貨幣量の増大」つまり「量的緩和」である。
 しかし、この主張は成立しない。マネタリストの解釈では、不況は貨幣的な現象である、とされる。しかしその主張では、「原因が結果を生む」かわりに、「結果が原因を生む」という、倒錯的な発想がなされているのだ。
 現実には、「生産量が減る → 貨幣量が減る」という事実がある。このことは統計的に判明している。これは、「原因 → 結果」という順の事実だ。ところが、マネタリストはこれを逆転させて、「結果 → 原因」と見なす。「貨幣量の減少」は、不況の結果であるのに、これを不況の原因であると見なす。つまり、マネタリストの主張する「原因」とは、本来は「結果」であるものだ。
 で、そういう倒錯の結果は? 当然、現実と食い違って、主張が破綻する。マネタリストは不況への対策として、「量的緩和」を主張するが、いくら「量的緩和」を実施しても、融資総額は増えないし、むしろ減ってしまう。(統計的事実。)
 かくて、マネタリストの原因説は、現実とは食い違う。
 
 以上の@ABで示したように、サプライサイド・不完全市場派・マネタリストのいずれも、主張が破綻している。結局、「不況には何らかの原因がある」という説は、成立しないのだ。
 古典派は、「本来ならば最適状態に落ち着くはずだ」と考える。だから、「最適状態にならないとしたら、何らかの原因があるせいだ」と思い込む。そしてしきりに、原因を探そうとする。しかしそもそも、原因はあるはずがないのだ。もともと存在しないものを、いくら探しても、どこにも見出せるはずがないのだ。つまり、「原因説」は、しょせん成立するはずがないのだ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   「原因説」によれば、不況には原因があるはずだ。
   しかし、「これが原因だ」と主張する説は、いずれも破綻している。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇構造説   
 
 「原因説」のあとで、「構造説」について示そう。
 「原因説」はいずれも成立しない、とすでにわかった。不況の原因を探しても、原因などはどこにも見つからないのだ。では、不況についてうまく説明できないのか? いや、そんなことはない。「原因説」とは異なる発想をすればいいのだ。そこで新たに、「構造説」の発想が登場する。
 「構造説」とは何か? それを説明するには、例を示すといいだろう。「鶏と卵」の話を思い浮かべてほしい。「鶏と卵の、どちらが先か?」という問題がある。これに対し、次の二通りの回答がある。
   ・ 鶏が先だ
   ・ 卵が先だ
 この二つを図式化しよう。すると、次の図式になる。
 
   ・ 鶏 → 卵
   ・ 卵 → 鶏
 
 この二つの図式は、抽象化して、次の図式に書き直せる。(AとBに当てはまる項目が、鶏と卵で替わる。)
 
    A → B
 
 この図式の意味は、「AがBをもたらす」ということであり、「AがBの原因である」ということだ。だからこの図式は、「原因説」の図式である。──つまり、「鶏が先だ」または「卵が先だ」という回答は、いずれも「原因説」の発想を取っているわけだ。
 では、鶏と卵のどちらが先か? もちろん、どちらも先ではない。つまり、どちらも原因ではない。では正しくは、どう理解すべきか? 鶏と卵の関係は、次の図式で示せる。
 
       ┌─── → ───┐
       鶏             卵
       └─── ← ───┘
 
 鶏と卵は、「一方が原因で、他方が結果である」というふうになっていない。「それぞれたがいに、原因でもあり結果でもある」というふうになっているのだ。
 さて。この図式を抽象化すれば、次の図式になる。
 
         ┌─── → ───┐
         A             B
         └─── ← ───┘
 
 ここではAとBがたがいに循環している。このような関係を、「循環構造」と呼ぼう。ここでは、「原因説」は成立しない。それでもあえて「原因説」ふうに順序を付けるとすれば、次のようになる。
 
      鶏 → 卵 → 鶏 → 卵 → 鶏 → 卵 → ……
 
 ここではもちろん、「どちらがどちらの原因である」とは言えない。つまり、「鶏が先だ」と仮定しても、「卵が先だ」と仮定しても、矛盾が生じる。──このパラドックスが、「鶏と卵」という話だ。
 このパラドックスを解決するには、どうすればいいか? 「原因説」の発想を捨てればよい。そしてかわりに、「循環構造」の発想を取ればよい。
 こうして、「構造説」の発想を、例示的に説明した。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   鶏と卵とは、どちらが原因だとも結果だとも言えない。
   鶏と卵とはたがいに、原因となり、結果となっている。
   このような関係を、「循環構造」と呼ぶ。これが「構造説」の発想だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇循環構造からの脱出   
 
 原因説の発想では、「原因 → 結果」という「因果関係」があると考えるが、構造説の発想では、何らかの「構造」があると考える。(特に、「循環構造」という構造。)
 ここで話を戻そう。そもそも最初の問題は、「不況はなぜ起こるのか?」ということだった。この問題に、どう答えるべきか? 原因説ならば、こう答えるだろう。 
    原因 → 不況
 この発想では、不況には原因があるはずだ。その原因を除去することで、不況は解決するはずだ。しかし、この発想は正しくない。(先に示した通り。)
 一方、構造説もある。同じ問題に、構造説の発想では、こう答える。不況という状況が続くのは、他に原因があるからではない。現状が不況だから、不況でありつづけるのだ。次の図式のように。
 
         ┌─── → ───┐
         不況            不況
         └─── ← ───┘
 
 たとえて言おう。人が何らかの理由で、穴に落ちたとする。そのあとも、穴に落ちたままだ。なぜか? 何かの原因があるからか? いや、穴に落ちていること自体が、穴にずっと落ちていることの理由だ。さて。ここでもし、原因説を取れば、「原因は穴の口がふさがれていないことだ」となるだろう。そして「原因を除去すればいい」と考えて、「穴の口をふさげばいい」と結論するだろう。しかし穴に落ちたあとで、穴の口をふさいだとしても、もはや手遅れだ。穴の口がふさがれていないことは、穴に落ちたことの原因にはなるが、穴から脱せないことの原因にはならない。では、どうするべきか?   穴に落ちたあとでは、穴に落ちない工夫をするのでなく、穴から出るための特別な工夫をすればいい。たとえば、誰かにロープを垂らしてもらうとか、穴の壁面を必死によじのぼるとか。……ここでは、「神様まかせ」や「自由放任」では駄目で、特別な意思と力が必要となる。
 これは、たとえ話だ。ともあれ、「穴に落ちている」という状況は、「原因説」で理解するよりも、「構造説」で理解する方がいい。そして、不況という経済現象もまた、そういうふうに「構造説」で理解する方がいい。そうすれば、不況から脱出する方法も見当がつく。
 つまり、不況という状況から脱出するには、「原因を除去する」という対策ではしょせんは無理であり、不況という状況から脱出するための、何らかの特別な力を使うべきなのだ。そして、いったん「不況」から脱出して、「好況」という状況へ転じれば、そのあとでは、次の図式が成立する。
 
         ┌─── → ───┐
         好況            好況
         └─── ← ───┘
 
 こうなれば、「好況が好況の原因である」という形で、好況が続くことになる。
 ともあれ、不況を脱出するための方法は、おおまかに見当がついたことになる。つまり、「特別な力を使って、一挙に状況を転じればいい」と。
 では、特別な力とは? その話は、マクロ経済学のあとに回すことにしよう。今はとりあえず、「構造説」について、もっと考察することにしたい。
 実は、景気変動の構造は、「循環構造」を拡張してできた、「スパイラル」という構造なのだ。この件について、次項で説明する。
 
 [ 補足 ]
 「不況」から「好況」へと状況を一挙に転じるには、特別な力を使えばいい。では、そんな特別な力というものは、あるのだろうか? ある。それは、「需要の創出」だ。ただし、この件は、いろいろと面倒な事情があるので、あとで言及することにする。当面は、「一挙に状況を転じることは可能だ」ということだけを、理解しておけばよい。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   不況については、「原因説」でなく「構造説」で理解するべきだ。
   そうすれば、不況からの脱出方法も、だいたい見当がつく。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇スパイラル   
 
 景気変動を説明するには、「スパイラル」という概念を用いる。スパイラルというものは、これもまた一つの構造であるので、「スパイラル構造」と呼んでもいい。これは、「循環構造」を拡張したものだ。(詳しくは後述。)
 スパイラルの具体的な例としては、次の二つの例がある。
   ・ インフレスパイラル
   ・ デフレスパイラル
 この二つは経済学では広く知られた概念だ。だから、この二つの概念を漠然と理解している人も多いだろう。ただし、その概念が具体的に何を意味するかは、従来の経済学では厳密に説明されていない。そこで、スパイラルの意味を厳密に説明することが、本書の目的の一つだ。
 スパイラルとは何か? 簡単に言えば、こうだ。
 「スパイラルとは、循環構造を取りながら、値が一方向に進むことだ」
 このことは、図形的に説明できる。まずは先の「循環構造」の図式を再掲しよう。
 
         ┌─── → ───┐
         A             B
         └─── ← ───┘
 
 この図式では、AとBは同一平面にある。循環が進んでも、AとBは同一平面にあるままだ。現在点は、同じ平面にいながら、 AとBの間をぐるぐる回っていることになる。
 一方、「スパイラル」という構造では、どうか? 現在点は、AとBの間をぐるぐる回りながら、この平面とは垂直の方向に移動していく。そういう関係は、図形的には、三次元の「らせん形」の形となる。(コイル・バネのような形。なお、「スパイラル」という英語は、日本語では「らせん形」である。)
 この「らせん形」の形を、横から見ると、次のように見える。
 
       A    A    A    A    A    ……
         \ / \ / \ / \ / \ / 
          B    B    B    B    B 
 
 これを一本の直線で示せば、次のようになる。
 
      A → B → A → B → A → B → ……
 
 これは前述の、循環構造の図式と同じだ。ただしスパイラルでは、この過程をたどるにつれて、AとBの値は変化していく。このことを示すために、 AとBに添字を付けると、次のように書き直される。
 
      A1 → B1 → A2 → B2 → A3 → B3 → ……
 
 ここでは「A」と「B」は、循環しているだけではない。循環しながら、「A」と「B」は、値が一方向に変化していく。Aは「 A1 → A2 → A3 → …… 」というふうに値が変化し、Bは「 B1 → B2 → B3 → …… 」というふうに値が変化する。いずれも、値が一方向に変化していく。
 これがスパイラルだ。
 
 景気変動は、スパイラルという構造によって、うまく説明される。そのことを示そう。
 まず、AとBには、何が当てはまるか? それは、「需要」と「供給」だ。まず、循環構造として図式化すれば、次の通り。
 
         ┌─── → ───┐
         需要            供給
         └─── ← ───┘
 
 こういう循環がある。そして、循環が進むにつれて、値が一方向に変化していく。具体的に言おう。デフレスパイラルは、次の図式で示せる。
 
      需要 → 供給 → 需要 → 供給 → ……
 
 もっと正確に書けば、「減少」という変化があるので、次の図式で示せる。
 
      需要減少 → 供給減少 → 需要減少 → 供給減少 → ……
 
 これを詳しく説明しよう。最初に「需要減」が起こる。(きっかけとして。)そのあと、「需要減少が理由となって、供給減少が起こる。さらに供給減少が理由となって、需要減少が起こる。さらに……」というふうに無限に循環していく。そして、循環が進むにつれて、需要の値も供給の値も、ともに減少していく。(一方向に変化する。)──それがデフレスパイラルだ。
( ※ インフレスパイラルでは、値の増減の方向は違うが、増減の仕方はデフレスパイラルと同じだ。)
 
 ともあれ、不況の本質は、「スパイラル」という構造で理解される。
 だから、不況の理由を知りたければ、「何が原因か?」と問うべきではなくて、「どんな構造があるのか?」と問うべきなのだ。そう問うたとき、「スパイラル」という解答を得る。
 
 [ 補足 ]
 すぐ前の説明では、「需要減少」について、「きっかけ」という言葉を用いた。ここでは、「きっかけ」と「スパイラル」とを区別しよう。
 たとえば、風邪を引いたとする。最初に取り込んだウィルスは、「きっかけ」である。そのあとで、最初のウィルスが増殖する。この増殖していく過程が「スパイラル」に相当する。──ここでは、「きっかけ」と「増殖」とは別のことだ。
 なお、「きっかけ」は、「原因」とは異なる。風邪を引いたあとで、最初のウィルスだけを除去しても、何の意味もない。最初のウィルスは、「きっかけ」ではあるが、「原因」ではないのだ。
 とにかく、これらの例から、「構造説」の発想を十分に理解しよう。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   「循環構造」を拡張したものとして、「スパイラル」という構造がある。
   そこでは、二つの要素が、循環しながら、一方向に変化していく。
   スパイラルの2要素が「需要」と「供給」であるのが、景気変動だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇所得の効果   
 
 景気変動の本質は、「スパイラル」という構造である。(前項で示したとおり。)
 ここで疑問が生じる。「スパイラル」という構造が成立するのは、なぜなのか? 「スパイラル」という構造が成立するとしたら、そうなるだけの根拠があるはずだ。では、その根拠とは? ──実は、それを探ることこそ、景気変動とは何かを解明することだ。
 ではいよいよ、考察を進めよう。
 
 そもそもスパイラルには、「循環構造」がある。特に景気変動の場合には、次の「循環構造」が成立する。
 
         ┌─── → ───┐
         需要            供給
         └─── ← ───┘
 
 ここでは、「需要」と「供給」の間に循環構造がある。(前項で示したとおり。デフレスパイラルやインフレスパイラルのときに、減少または増加の循環がある。)
 ではなぜ、この循環構造は成立するのか? それを考えるために、ひとまず循環構造を、次の二つの過程に分けよう。
   ・ 需要 → 供給
   ・ 供給 → 需要
 この二つに分けてから、次の@Aで説明する。
 
 @ 需要 → 供給
 これは、成立する。たとえば、パソコンの需要が減れば、パソコンの供給も減る。当然だ。(仮に、供給が減らなければ、在庫が山のように積み重なる。現実には、そういうことはありえない。つまり、在庫調整がなされるので、需要が減った分、供給が減る。)
 
 A 供給 → 需要
 これは、成立しないことがある。なぜか? 実を言うと、これは、一つの過程であるが、次の二つの段階に分けられる。
   ・ 供給 → 所得
   ・         所得 → 需要
 この二つの段階を通して見れば、「供給 → 所得 → 需要」というふうにつながるので、「供給 → 需要」という一つの過程になる。では、この二つの段階はともに成立するのか? それが問題だ。
 結論から言おう。後段はともかく、前段は成立しないことがある。どうしてそうかということは、このあとの[ 補足 ]で説明する。
 ともあれ、ここでは、二つの段階に区別される。そのことが重要だ。
 
 結局、@Aをまとめると、次の二つの過程があることになる。
   ・ 需要      →      供給
   ・ 供給 → 所得 → 需要
 この二つをまとめると、次の図式になる。
 
       ┌─── → ───┐
       需要            供給
       └─ ← 所得 ← ─┘
 
 これが正しい図式だ。つまり、循環構造が成立するのは、「供給」と「需要」との間に「所得」が介在しているからなのだ。デフレスパイラルやインフレスパイラルを考察するときには、「需要」と「供給」だけでなく「所得」という第三の要素が決定的に重要な役割を果たしているのだ。
 
 ここで、新たな問題が生じる。「循環構造において、所得はどういう役割を果たしているのか?」と。
 ところが、この問題に答えようとして、壁にぶつかる。いくら答えようとしても、答えようがないのだ。なぜか? ミクロ経済学では、そもそも「所得」はモデルに登場しないからだ。ミクロのモデルには、「需要」と「供給」という二つの要素はあるが、「所得」という三つ目の要素はないのだ。もともとモデルにない要素は、モデルにおいて考察のしようがない。
 
 では、どうすればいいか? 「お手上げ」と称して、問題解決を投げ捨てればいいか? いや、そうではない。ミクロのモデルでは解決できなければ、ミクロでない別のモデルを導入すればいい。その別のモデルは、「需要」と「供給」と「所得」の三つの要素を含み、かつ、三つの要素の変動を動的に示すモデルだ。──そして、そのモデルこそ、マクロのモデルなのだ。
 かくて、マクロのモデルの必要性が明らかになった。そこで、いよいよ次章では、マクロ経済学に踏み込もう。ミクロの範囲では解決できない問題を解決するために。
 
 [ 補足 ]
 先の話について、補足しておこう。
 「供給 → 需要」という過程は、「供給 → 所得」および「所得 → 需要」という二つの段階に分けられる。この二つの段階のうち、前段の「供給 → 所得」は必ずしも成立しない。つまり、前段は遮断されることがある。では、どういう場合に、そうなるのか? それは、次の場合だ。
 「供給は変動するのに、所得は変動しない」
 具体的に言えば、次のいずれかだ。
   ・ 企業の生産量は減っているのに、従業員の所得は変わらない。
   ・ 企業の生産量は増えているのに、従業員の所得は変わらない。
 こういうことが起こるのは、どういう場合か? それはまた別の話になる。ともあれ、こういうことがあるのだ、と理解しておけばよい。そして、こういうことがある(前段が遮断されることがある)がゆえ、二つの段階は区別されるべきなのだ。
 ついでに説明しておこう。「所得」が大切なのは、「需要」が「消費」であるからだ。「需要」が「政府投資」や「民間投資」であれば、「所得」の影響を受けない。しかし「需要」が「消費」であれば、「所得」の影響を大きく受ける。──だからこそ、前節では、「需要の変動」が「消費の変動」であることを強調したわけだ。
 なお、「所得」が「消費」にどう影響するかということは、次章の「マクロ経済学」で詳しく説明される。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   景気変動の循環構造では、「需要」と「供給」と「所得」の三つが働く。
   このうち、「所得」が重要だ。「所得」が止まると、循環全体が止まる。
   ミクロのモデルには、「所得」が現れない。ミクロのモデルは力不足だ。
   ミクロの動的な変動を示すには、ミクロのモデルとは別のモデルが必要だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇回顧と展望   
 
 ここで、話を振り返って、まとめてみよう。
 
 経済学の課題は、不況の解決である。しかるに従来の経済学は、不況に対しては十分な解決策を示せなかった。特に、古典派が問題だ。古典派は、「神の見えざる手」という原理のもとで、「経済は原則として最適化される」と考えた。しかし現実には、不況が起こる。古典派はそれを見て、「不況になるのは、何らかの原因があるからだ」と考えた。では、原因とは? それぞれの学派ごとに、次のものが原因だと主張した。
   ・ サプライサイド …… 質の悪化
   ・ 不完全市場派   …… 阻害物
   ・ マネタリスト   …… 貨幣量の減少
 しかしいずれも、不況の「原因」にはならない。(インフレの「原因」にはなるかもしれないが。)……たとえば、「質の悪化」や「阻害物」を不況の原因と見なして、これを除去すれば、不況はかえって悪化していく。また、「貨幣量の減少」は、原因ではなく結果であるから、これを除去しても無効である。──というわけで、不況には、何らかの原因があるわけではないのだ。
 
 では、どう理解すべきか? 実は、古典派の信じる「神の見えざる手」そのものが必ずしも成立しないのだ。「神の見えざる手」は、「悪魔の見えざる手」に転じることがある。つまり、「放置すれば状況は悪化していく」というふうになることがある。では、どういうときに、「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じるのか?
 
 まずは、ミクロ経済学でモデル的に考える。古典派の「需要曲線」というモデルを使うと、「神の見えざる手」が説明される。(ワルラスが「ワルラス的調整過程」として示した。)しかるに、「トリオモデル」という新しいモデルを使うと、「神の見えざる手」と「悪魔の見えざる手」とがともに説明される。
 トリオモデルは、需給曲線のモデルに似ているが、異なるところもある。「需要曲線」と「供給曲線」のほかに、「下限直線」があるのだ。この第三のものがあることで、「神の見えざる手」と「悪魔の見えざる手」とが区別される。次のように。
   ・ 均衡点が下限直線よりも上にあるとき …… 「神の見えざる手」
   ・ 均衡点が下限直線よりも下にあるとき …… 「悪魔の見えざる手」
 つまり、均衡点と下限直線との位置関係によって、「神の見えざる手」と「悪魔の見えざる手」のどちらの状況であるかが決まる。
 どちらの状況であれ、下向きの力(「ワルラス的調整過程」の力)は働く。つまり、現状が均衡点からはずれれば、均衡点に近づけようとする力が働く。ただし、現状が均衡点に近づくことには、良し悪しがある。
   ・ 市場にとって    …… 最適配分というメリット
   ・ 個別企業にとって …… 価格低下というデメリット
 後者のデメリットが問題だ。「下限直線割れ」が起こらなければ、デメリットは特に問題がない。なぜなら、企業が損しても、その分、消費者は得をするからだ。しかし、「下限直線割れ」があると、デメリットは問題となる。多くの企業が倒産しかけるからだ。
 そもそも「市場原理」とは、「劣者退場」のことだ。それは「質的に劣るものから順に退場する」という原理だ。しかるに、「下限直線割れ」という状況では、全員が赤字なのであるから、「劣者退場」のかわりに、「全員退場」となる。ここでは、「市場原理」は成立しない。
 要するに、「下限直線割れ」という状況のときには、「市場原理」は正常に働かなくなっているのだ。当然、「神の見えざる手」も成立しない。それどころか、放置すれば、企業はどんどん倒産し、労働者はどんどん失業していく。かくて、放置すれば、状況はどんどん悪化していく。(「悪魔の見えざる手」の状態。)
 
 では、「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じるのは、どういうときか? そのことはトリオモデルからわかる。すぐ前に、次のことを示した。
   ・ 均衡点が下限直線よりも上にあるとき …… 「神の見えざる手」
   ・ 均衡点が下限直線よりも下にあるとき …… 「悪魔の見えざる手」
 この二つを対比すれば、すぐにわかる。「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じるのは、均衡点が下限直線よりも「上」から「下」へ移動するときだ。
 では、それは、どのように起こるか? この問題を探るには、ミクロのモデルで動的な変動を考えればよい。すると、均衡点が移動するのは、次の三通りがあるとわかる。
   ・ 需要曲線の変動
   ・ 供給曲線の変動
   ・ 下限直線の変動
 このうち特に重要なのは、「需要曲線の変動」である。また、「需要」のうち、特に重要なのは「消費」である。結局、重視すべきは、「消費」の変動である。
 では、「消費」は、どのように変動するか? 
 
 ここで、「原因説」と「構造説」に分かれる。
 「原因説」は、いずれも不適切である。残るのは、「構造説」だ。構造説によれば、景気変動には、何らかの原因があるわけではない。かわりに、「循環構造」がある。次のように。
 
         ┌─── → ───┐
         需要            供給
         └─── ← ───┘
 
 ここでは、「需要」と「供給」が循環している。と同時に、それぞれの値が一方向に変化していく。たとえば、次のように。(これはデフレスパイラルの場合。)
 
      需要減 → 供給減 → 需要減 → 供給減 → ……
 
 ここには、循環構造がある。ただしここでは本当は、「需要」と「供給」の二つだけがあるのではない。この二つの途中に、「所得」が挟まるのだ。「所得」こそ、決定的に重要だ。
 しかるにミクロのモデルでは、「需要」と「供給」という要素があるだけで、「所得」という要素がない。「所得」を考慮するには、ミクロのモデルを越えた、新しいモデルが必要となる。
 かくて、ミクロ経済学のあとで、マクロ経済学へ進むことになる。スパイラルの過程を数学的にモデル化するために。
 

 
●第V章 マクロ経済学の原理   
 
 マクロのモデルである「修正ケインズモデル」について説明する。これは、先に示した「スパイラル」を数学的に示すモデルだ。(説明には数式を使う。面倒臭ければ、数式については、ざっと目を通すだけでもよい。)
 
■V・1 マクロの基礎   
 
 モデルを示す前に、マクロ経済学全体をざっと見渡しておく。
 
◇位置づけ   
 
 前章の最後の話を、おさらいしよう。
 「神の見えざる手」と「悪魔の見えざる手」は、本質的に同じものだ。ただし不況のときには、「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じる。良いことをなすはずのものが、悪いことをなす。では、どういうわけで、「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じるのか? ──それが問題だ。
 これを明かすのに、トリオモデルを用いる。「神の見えざる手」の成立する状況と、「悪魔の見えざる手」の成立する状況との、二つがある。両者はトリオモデルで、「左側の図」と「右側の図」に相当する。つまり両者は、トリオモデルによって図形的に示される。──すると、こうわかる。「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じるということは、トリオモデルで「左側の図」から「右側の図」へと転じるということだ、と。
 「左側の図」から「右側の図」へと転じること。それは、どういうふうにして起こるのか? そのことを探るには、トリオモデルで動的な認識をすればよい。つまり、「需要曲線」「供給曲線」「下限直線」を、静止したものでなく、変動するものと見なせばよい。すると、この三つの変動のうち、「需要曲線」の変動こそ重要だ、とわかる。
 モデルにおける「需要曲線」の変動は、現実における「需要」の変動のことだ。では、それは、どういうふうに生じるのか? 何らかの原因によってか? いや、何らかの構造によってだ。それは、「スパイラル」という構造だ。
 景気変動としての「スパイラル」という構造がある。そこでは、「需要」と「供給」が循環構造を取りながら、それぞれの値が一方向に変化していく。「需要」と「供給」がともに減少していくのが「デフレスパイラル」であり、「需要」と「供給」がともに増加していくのが「インフレスパイラル」である。
 この二通りのスパイラルでは、「所得」が重要な役割を果たしている。しかし、ミクロのモデルでは、「所得」について説明できない。ミクロのモデルには、「所得」という要素がないからだ。そこで、ミクロの範囲を超えたモデルが必要となる。そのモデルが、マクロのモデルだ。
 
 こうして、「ミクロ」と「マクロ」の関係は判明する。すなわち、「ミクロ」の動的な変動を認識するためのモデルが、「マクロ」のモデルなのである。──これが、本書の立場からの解釈だ。
 一方、それとは別に、「ミクロは部分市場/マクロは全体市場」という仕方の区別もある。──これは、従来の経済学の立場からの解釈だ。
 この二つの立場を考慮しながら、ミクロとマクロとの関係について、次項ではあらためて説明しよう。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   ミクロを動的に認識するためのモデルが、マクロのモデルだ。
   マクロのモデルでは、「需要」と「供給」のほかに「所得」も扱う。
   一方、ミクロとマクロには、「部分市場/全体市場」という区別もある。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇部分市場と全体市場   
 
 ミクロ経済学とマクロ経済学とは、どこがどう違うのか? 従来の経済学では、次のように説明される。
 「ミクロとマクロの違いは、部分市場か全体市場かという違いだ」
 この説明では、「ミクロ/マクロ」という学問分野の違いが、「部分市場/全体市場」という対象分野の違いで示される。
 一方、本書の解釈では、「ミクロ/マクロ」という学問分野の違いは、「静的な認識/動的な認識」という認識の仕方の違いで示される。
 では、この二つの解釈のうち、どちらが正しいのか? 
 
 答えよう。実は、この二つの解釈は、等価である。つまり、「部分市場/全体市場」という区別と、「静的な認識/動的な認識」という区別とは、実質的に同じなのだ。しかも、この区別は、「所得を考慮しない/所得を考慮する」という区別とも、実質的に同じである。
 詳しく説明しよう。まず、次の循環構造を見る。
 
       ┌─── → ───┐
       需要            供給
       └─ ← 所得 ← ─┘
 
 これは、景気変動のスパイラルにおける循環構造だ。この循環構造には、ぐるぐると回る循環がある。この循環が成立する限り、スパイラルが成立する。
 ただし、この循環は成立しないことがある。経路のうちの一部が遮断されれば、循環がストップする。では、どこが遮断されるのか? 「需要 → 供給」という過程では、遮断は起こらないが、「供給 → 需要」という過程では、遮断が起こることもある。
 説明しよう。「供給 → 需要」という過程は、次の二つの段階に区別される。
   ・ 供給 → 所得
   ・ 所得 → 需要
 この二つの段階がある。そのうち、どちらが遮断されるか? 実は、どちらも遮断される場合がある。順に述べよう。
 第1に、「供給 → 所得」という前段が遮断されることがある。これは、「景気変動があっても、所得に反映されない」という場合だ。この件については、前述したとおり。(これはこれで重要だが、やや例外的な場合であるので、当面の話題とはならない。)
 第2に、「所得 → 需要」という後段が遮断されることがある。これは、実は、「部分市場」の場合に相当する。これについて、以下で詳しく説明しよう。
 
 「所得 → 需要」という後段は、部分市場(特定産業の市場)では遮断される。このことを説明する。
 具体的に考えよう。部分市場の例として、枕の市場を取る。また、スパイラルとしては、インフレスパイラルを取る。枕の市場でインフレスパイラルがある、という場合を考える。この場合、次の循環構造が成立するはずだ。
 
    需要増加 → 供給増加 → 所得増加 → 需要増加 → ……
 
 ここには、いくつかの段階がある。それぞれの段階に分けて考えよう。
 「需要増加 → 供給増加」 …… これはもちろん成立する。枕の需要が増えれば、枕の供給が増える。(企業が増産するから。)
 「供給増加 → 所得増加」 …… これは通常なら成立する。「企業の収益性向上にともなう賃上げ」という形だ。(やや例外的に、成立しないこともある。しかしそれはそれで、別の話題となる。)
 「所得増加 → 需要増加」 …… これは部分市場では成立しない。この件を、以下で説明しよう。
 
 経済現象としての「ブーム」がある。たとえば、古いところでは、「フラフープ」や「ダッコちゃん」のブームがあった。近年でも、「ナタデココ」や「タマゴッチ」などのブームがあった。これらと同じように、枕のブームが起こったとしよう。つまり、枕の需要が急激に増えたとしよう。
 枕の需要が増えると、枕の供給が増える。そしてさらに、枕産業に勤める労働者の所得が増える。つまり枕産業で、次のことが成立する。
    需要増加 → 供給増加 → 所得増加
 ここまではいい。そのあとが問題だ。
    所得増加 → 需要増加
 このことは、枕産業で成立するか? 実は、成立しない。では、なぜ? 枕産業の労働者の所得が増えたあとで、増えた所得によって増える需要は、枕だけの需要ではなくて、全産業の需要であるからだ。
 たとえば、枕産業で労働者の所得が百億円増えたとしよう。百億円のうち、貯蓄に十億円が回り、消費に九十億円が回る。その九十億円で、枕の売上げが九十億円増えるか? いや、そんなことはない。かわりに、電器製品や娯楽などの全産業において売上げが九十億円増える。枕の売上げが増える分は、ごく微々たるものであるから無視してよい。というわけで、枕については、「所得増加 → 需要増加」ということは成立しない。
 結局、循環構造の図式のうちの、「所得 → 需要」という箇所が遮断されるのだ。少なくとも、部分市場ではそうだ。
 一方、全体市場では? 全体市場では、「所得 → 需要」という箇所が遮断されない。なぜなら、所得増加の効果が、たがいに影響しあうからだ。──たとえ話で示そう。生徒がお年玉をもらってから、自分の分を全生徒に分けるとする。誰か一人がお年玉を千円もらっただけなら、全生徒に配分したあと、自分の取り分は無視できるほど小額になる。しかし、全生徒がみんな千円ずつもらってから、たがいに与えあうので、全生徒がみんな千円ずつ取れる。これは小額ではない。
 
 要するに、こうだ。「所得増加 → 需要増加」という過程がある。この過程は、成立するか否か? 枕産業だけで需要が増えた場合には、成立しない。しかし全産業で需要が増えた場合には、成立する。(なぜなら、部分市場では効果が拡散するが、全産業では効果が拡散しないから。)
 循環構造の図式のうちの「所得 → 需要」という箇所は、部分市場においては遮断されている。だから部分市場では、循環構造が成立しないし、スパイラルも成立しない。一方、全体市場においては、この箇所は遮断されていない。だから全体市場では、循環構造が成立するし、スパイラルも成立する。
 以上のことをまとめると、ミクロとマクロの区別については、次のように示せる。
 
    ┌─────┬───────┬───────┐
    │    / │   ミクロ   │   マクロ   │
    ├─────┼───────┼───────┤
    │   市場   │ 部分市場   │   全体市場   │
    ├─────┼───────┼───────┤
    │ 循環構造 │ 成立しない │   成立する   │
    ├─────┼───────┼───────┤
    │スパイラル│ 成立しない │   成立する   │
    └─────┴───────┴───────┘
 
 ミクロとマクロの区別については、「市場」「循環構造」「スパイラル」という三通りの観点から区別ができる。どの区別を取っても、本質的には等価である。
 では、大切なのは、何か? 三通りの観点がいずれも等価であるということか? そうではない。大切なことは、別にある。以下に示すことだ。
 
 ミクロとマクロについては、「部分市場/全体市場」という区別がある。これは、従来からある区別であり、対象による区別だ。その区別は、間違っているわけではない。ただしそれは、表面的な区別にすぎない。本質的な区別は、「静的/動的」という区別だ。
 現実の経済は、動的なものである。動的なものを動的なものとして認識するのが正しい。とはいえ、いきなり動的なモデルで扱おうとしても、現実の経済はあまりにも複雑だから、簡単にモデル化できない。そこでまず、単純化して、静的なモデルで扱いたい。そのような単純化は、不可能ではない。少なくとも、部分市場についてなら、そういう単純化が可能だ。
 なぜ部分市場では、そういう単純化が可能なのか? 部分市場では、「所得」が無視可能だからだ。というのは、部分市場では、その所得の変動の効果が、全体市場に拡散して、部分市場から消えてしまうからだ。(枕産業で所得の変動があっても、その変動は枕の需要に影響しない。)
 一方、全体市場では、そういう単純化は不可能だ。全体市場では、「所得」が無視不可能だからだ。というのは、全体市場では所得の変動の効果が、全体のなかでたがいに影響しあって、消えないからだ。(全産業で所得の変動があれば、その変動は全産業の需要に影響する。)
 結局、ミクロとマクロの区別は、「部分市場/全体市場」という区別をしてもいいが、むしろ「静的/動的」という区別をした方がいい。「需要」と「供給」の関係を考えるとき、対象が部分市場であれば、静的なミクロのモデルで考察してもいいが、対象が全体市場であれば、動的なミクロで考察するべきだ。一国全体について「需要がどうのこうの、供給がどうのこうの」というふうに論じるときには、必ず、動的なモデルを使う必要がある。そして、その動的な変動を具体的に数値で示すモデルが、マクロのモデルなのだ。
 ミクロとマクロとは、こういう関係にある。その関係を正しく理解しよう。(なお、それを理解せず、一国全体について「需要がどうのこうの、供給がどうのこうの」というふうに考えるときに、静的なモデルを使って失敗するのが、古典派だ。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   ミクロとマクロの違いは、「部分市場/全体市場」という違いでもあるが、
   循環構造やスパイラルが成立するかしないか、という違いでもある。
   それはまた、「静的/動的」という認識の違いでもある。
   一国全体の「需要」や「供給」を論じるときには、動的に認識するべきだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇マクロ経済学の準備   
 
 ミクロとマクロの関係については、すでに判明した。
 結局、ミクロとマクロとの違いは、市場規模の違いとも言えるが、むしろ、認識の仕方の違いである。不況などの景気変動を扱うには、経済を動的に認識する必要がある。そのためには、ミクロ的な認識ではなく、マクロ的な認識をする必要がある。マクロ的な認識とは、「所得」の効果を考慮しながら、「需要」や「供給」の動的な変動を見るという認識だ。そして、マクロ的な認識をするには、「所得」を含む新たなモデルを導入する必要がある。それは数学的なモデルだ。
 
 そこでいよいよ、マクロのモデルを導入することにしよう。ただし、いきなりモデルを提出するのでなく、その前に準備として、用語を解説しよう。
 マクロ経済学には、ミクロ経済学とは違って、次のような用語がある。
 
   ・ 「総需要」 …… 全体市場の「需要」
   ・ 「総供給」 …… 全体市場の「供給」
   ・ 「総生産」 …… 「総供給」に同じ。
   ・ 「生産量」 …… 「総生産」に同じ
   ・ 「総所得」 …… 国民全体の「所得」
   ・ 「所得」   …… 「総所得」に同じ
 
   ・ 「消費」   …… 「所得」のうちで消費に回される分
   ・ 「貯蓄」   …… 「所得」のうちで消費に回されない分
   ・ 「消費性向」 …… 「所得」のうちで消費に回される分の割合
                   (平均消費性向/限界消費性向)
   ・ 「投資」   …… 総需要の一部。生産活動のために使う。
                  (償却する必要があるところが消費と違う)
 
 いろいろと用語がある。しかしこれらは、新聞にもよく現れる用語だから、たいていの人はおおまかに理解しているだろう。おおまかに理解していれば、それで十分である。
 とはいえ、注意すべきことも少しだけあるので、次に列挙しておこう。
 
 @ 「供給」と「生産量」
 ミクロの「供給」という用語は、マクロの「生産量」という用語に相当する。両者は、用語は異なるが、意味はほぼ同じである。(あまり気にしなくてよい。)
 
 A 「需要」と「消費」
 ミクロの「需要」という用語は、マクロの「消費」という用語に相当する。両者は、用語は異なるが、意味はほぼ同じである。
( ※ 経済学一般の用語では、「需要」と「消費」はもちろん異なる。両者の差が「投資」である。とはいえ、マクロ的に動的な認識をする限りは、「需要の変動」と「消費の変動」は同じものである。なぜなら、「投資」が一定であれば、「投資の変動」はゼロになるからだ。というわけで、「投資の変動」を無視して、「需要の変動」として「消費の変動」だけに着目すればよい。……この件については前にも述べた。)
 
 B 「総〜」
 それぞれの値が全体市場の値であることを強調するために、「総〜」というふうに呼ぶことがある。たとえば、「総消費」「総生産」「総所得」というふうに。
 とはいえ、わずらわしいので、「総〜」を省いて、単に「消費」「生産」「所得」と呼ぶこともある。(あまり気にしなくてよい。)
 
 C 基本要素
 用語がいろいろある。すると、モデルには変数がいろいろあるように思えるかもしれない。しかし基本となる変数は、次の三つだけである。
    「消費」「生産」「所得」
 この三つのうち、「消費」と「生産量」は、ミクロの「需要」と「供給」に相当する。また、「所得」は、マクロのモデルで新たに加わったものだ。
 
 D 三面等価の原則
 「需要」「生産量」「所得」という三つの値は、マクロ的には金額が一致する。つまり、次の等式が成立する。(単位は金額の「円」)
       総需要 = 総生産 = 総所得
 この等式が成立することを、「三面等価の原則」という。(ただし「需要」は、「消費」と「投資」の合計。)
( ※ 三面等価の原則は、何を意味するか? それを考えると、話はまた複雑になる。そもそも「総生産」などをどうやって計測するか、という問題がある。話が複雑になるが、あまり本質的な話ではないので、本書では割愛する。興味のある人は、経済学の教科書を読むといいだろう。たいして実りある話ではないが。)
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   マクロのモデルでは、「消費」「生産量」「所得」が、基本的な要素だ。
   「消費」と「生産量」は、ミクロの「需要」と「供給」に相当する。
   ┗───────────────────────────────────
 
■V・2 修正ケインズモデルの基礎   
 
 いよいよ、マクロのモデルを提出しよう。本節ではまず、モデルの基礎を示す。
 
◇概要   
 
 初めに、概要を展望しておこう。細かなことを述べる前に、全体的にどのようなことを述べるか、おおまかに示しておくわけだ。(これは結論のようなものであるから、今はまだよく理解できなくてもいい。頭にざっと留めておくだけでいい。)
 
 このモデルの名称は、「修正ケインズモデル」という。
 モデルの骨格となるのは、二つの数式だ。これらを「基本数式」と呼ぶ。
 基本数式は、一次式(一次関数)で示される。この式をグラフ化すると、直線となる。こうしてできたのが、修正ケインズモデルだ。
( ※ 修正ケインズモデルは、数学的には少しも難しくない。中学一年生レベルの簡単な数学さえ知っていればいい。)
 
 基本数式としての二つの数式をグラフ化すると、二つの直線となる。それぞれ、「生産直線」「消費直線」と呼ばれる。
 「生産直線」は、固定的である。
 「消費直線」は、可変的である。数式の係数が変化するにつれて、直線も変化する。ただし、例示的に、二通りだけを考える。つまり、二通りの「消費直線」だけを考える。二通りの「消費直線」は、二本の直線となる。
 これらをすべて、一枚の図に重ねて描く。つまり、一枚の図に、「生産直線」が一本と、「消費直線」が二本の、合計三本の直線が描かれている。この図が、「修正ケインズモデル」のグラフだ。
 生産直線と消費直線は、一点で交差する。ただし、消費直線が二通りあるので、均衡点も二通りある。この交点は、「均衡点」である。消費直線が変動すると、均衡点も変動する。こうして均衡点の位置が変動することを、「均衡点の移動」と呼ぶ。状況が変わると、消費直線が変動するので、「均衡点の移動」が起こる。(それぞれの状況ごとに、均衡点は一つある。)
 均衡点は移動する。しかし現状の点は、すぐには均衡点には追いつかない。そのせいで、現状の点と均衡点とが、ズレる。
 現状の点は、均衡点にだんだん近づいていく。それにともなって、ズレの幅がだんだん縮小していく。
 現状の点が均衡点にだんだん近づいていくとき、どういう経路をたどるか? それが問題だ。この経路を知るには、「数列」という発想を取るといい。「生産直線」と「消費直線」の上にある数列を考える。この数列は、
   ・ 現状の点は、「生産直線」上の点である。
   ・ 現状の点は、「消費直線」上の点である。
 という二通りを、交互に取る。そこには循環構造がある。循環がどんどん繰り返されるうちに、数列が進行していく。そしてついに、数列の極限値に達したとき、グラフでは、途中の点が収束点に達する。その収束点こそ、均衡点だ。そして、均衡点に到達するまでの過程が、スパイラルの過程だ。
 結局、スパイラルの過程は、「数列の進行」として理解される。すると均衡点は、数列の収束点として理解される。──修正ケインズモデルは、このようなことを数学的に説明する。
 そして、こういうふうに数学的に理解すると、「悪魔の見えざる手」という現象の核心もわかる。それは「背反原理」である。(詳しくは省略。)
 この原理を理解すると、これまで経済学者が誤ったわけがわかる。経済学者が誤ったのは、「悪魔の見えざる手」を見なかったからではない。「悪魔の見えざる手」を見ても、それを「神の見えざる手」と勘違いしてきたからだ。なぜなら、「悪魔の見えざる手」は、あまりにも巧妙に「神の見えざる手」に似た姿を取ってきたからだ。
 悪魔は、いかにも悪魔らしい姿をしていたわけではなくて、むしろ美しくて優しい姿をしていたのだ。それゆえ、人々は、それを悪魔とは気づかないまま、悪魔の手に導かれていったのだ。……自分は天国に向かっていると信じながら、地獄へと。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   修正ケインズモデルは、二種類の直線で示される簡単な数学モデルだ。
   この簡単な数学モデルから、厳密で、豊かな成果が導き出される。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇修正点   
 
 参考として、修正ケインズモデルを、その原型となったケインズのモデルと比較しておこう。
 実を言うと、ケインズのモデルをいちいち理解する必要はない。修正ケインズモデルを理解するだけでいい。ただし、両者は似て非なるものだから、どこがどう違うかを、比較するのもいいだろう。
 本来なら、「修正ケインズモデルを提出したあとで、ケインズのモデルを示す」という順序を取るべきであろう。ただし、倒叙的ではあるが、先にこの比較を記しておく。
 なぜか? この比較は、これは、専門家向けの解説だからだ。専門家ならば、すでにケインズのモデルを理解しているはずだ。だから、ケインズのモデルとは何かを、いちいち説明されなくても済むから、いきなり比較を読んでもいいはずだ。また、あらかじめ比較を知っておくと、あとで修正ケインズモデルを理解するのに、役立つ。
 一方、経済学の素人である読者ならば、ケインズのモデルといちいち比較する必要はない。ケインズのモデルは、修正ケインズモデルの特別な場合という形で、修正ケインズモデルのうちに含まれる。だから、修正ケインズモデルを理解したなら、そのとき同時に、ケインズのモデルをも理解したことになる。あらためてケインズのモデルを学ぶ必要はない。
 というわけで、この比較は、[ 補足 ]の形で示しておく。専門家は、[ 補足 ]を読んでほしいが、経済学の素人である読者は、[ 補足 ]を読み飛ばして、次項へと移ってしまって構わない。
 
 [ 補足 ]
 修正ケインズモデルは、ケインズのモデルとは、似て非なるモデルである。基本的な発想は同じなのだが、部分的に修正されている。そこで、どこがどう修正されているかを、ざっと解説しておこう。修正点は、三つある。次の@ABで示す。
 
 @ 限界消費性向の変化
 修正ケインズモデルでは、「限界消費性向は可変的である」と考える。これは、ケインズのモデルとは異なる。ケインズのモデルでは、「限界消費性向は固定的である」とされているからだ。──この点は、モデルとしての違いだ。
( ※ なお、両者は対立するわけではない。修正ケインズモデルは、ケインズのモデルを拡張していることになる。ケインズのモデルは、修正ケインズモデルの、特定の場合だ。)
 
 A グラフ化の手法
 グラフ化の方法は、二つのモデルで異なる。修正ケインズモデルでは、数学における標準的な方法を使う。つまり、「一次方程式をグラフ化する」という、普通の方法である。この方法は、中学の数学教科書に書いてある通りだ。──この件については、特に意識しなくてもよい。
( ※ なお、たいていの経済学の本は、ケインズのモデルを説明するときに、奇妙な方法を使う。これは、数学的に間違った方法だというわけではないが、筋の悪い方法である。数学音痴の発想だ。)
 
 B 変化の途中過程
 修正ケインズモデルでは、変動があるとき、その途中過程が重視される。これが、ケインズのモデルと比べて、決定的に異なる点だ。
 ケインズのモデルは、結果としての均衡点だけを重視する。「ここが到達すべき均衡点です」というふうに示すだけだ。(「方程式の解」という発想。)
 修正ケインズモデルは、均衡点に到達するまでの、途中過程を重視する。「ここが均衡点です」と示すだけでなく、「どんな経路で均衡点に到達するか」を考えながら、その経路を重視する。
 ケインズのモデルは最終的に到達する点を「静的」に示すだけだが、修正ケインズモデルは最終的に到達する点に至るまでの途中過程を「動的」に示す。──そして、そういうふうに「動的」に示された過程こそ、スパイラルという構造なのだ。
 修正ケインズモデルは、スパイラルという構造が何であるかを、解明する。これこそ、ケインズのモデルとの違いとして、決定的に重要なことだ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   修正ケインズモデルは、ケインズのモデルを部分的に修正したものだ。
   手法としては、モデルを構成するときの、条件と方法が異なる。
   また、モデルを理解するとき、「静的」でなく「動的」にとらえる。
   修正ケインズモデルは、スパイラルという構造を、数学的に解明する。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇モデルの要点   
 
 では、修正ケインズモデルを示すことにしよう。まずは、話の要点を示しておこう。
 修正ケインズモデルは、図形的には、簡単に示せる。次の図だ。
 
[ 第5図 修正ケインズモデル の図 ] 
 

 
 この図には、三本の直線がある。次の三本だ。
   ・ 傾きが1である直線。(角度は45度)
   ・ 傾きが0.8である直線。
   ・ 傾きが0.7である直線。
 このうち、1番目の直線を「生産直線」と呼ぶ。2番目と3番目の直線を「消費直線」と呼ぶ。
 点Aは、1番目の直線と2番目の直線との交点である。
 点Bは、1番目の直線と3番目の直線との交点である。
 さて。消費直線は二つあるが、このうち、どちらか一方だけが成立する。つまり、傾きが変化するにつれて、一方から他方へと交替するわけだ。
 消費直線の傾きが 0.8から0.7に変化するとしよう。それにともなって、生産直線と消費直線との交点は、点Aから点Bへと変動する。このことが非常に重要である。
 その後、点Aから点Bへと向かう経路として、図の破線で示される経路がある。この経路が、「スパイラル」の過程に相当する。
 以上が、修正ケインズモデルの要点である。
 
 [ 補足 ]
 ここでは、「消費直線の傾きが 0.8から0.7に変化する」というふうになっている。このことに注意しよう。
 仮に、「消費直線の傾きが 0.7のままである」とすると、このモデルは、ケインズのモデルと等価である。つまり、ケインズのモデルは、修正ケインズモデルの特殊な場合である。逆に言えば、ケインズのモデルで、「傾きが 0.7から 0.8に変化する」というふうにすれば、ケインズのモデルは修正ケインズモデルへと拡張されることになる。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   修正ケインズモデルは、二種類(三本)の直線をもつグラフで示される。
   消費直線の傾きが変化すると、消費直線と生産直線の交点が移動する。
   交点Aから交点Bへの経路が、スパイラルの過程に相当する。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇基本数式の導入   
 
 要点はすでに示した。いよいよ、モデルを厳密に構築することにしよう。
 まずは、モデルのための数式を提出する。修正ケインズモデルには、基盤となる数式が二つある。次の二つだ。
      C = Y − I        (Iは定数)
      C = gY + h      (gとhは定数)
 前者を「第1式」 と呼び、後者を「第2式」と呼ぼう。
 第1式は、グラフでは「生産直線」(グラフの傾きが1)に相当する。
 第2式は、グラフでは「消費直線」(グラフの傾きが0.7または0.8)に相当する。この傾きの値は、第2式におけるgの値である。
 基本数式の二つの式を取ったあとで、この二つの式をグラフ化すると、先のグラフになるわけだ。
 となると、基本数式の二つの式がどういうふうにして登場するか、というのが問題となる。では、その説明をしよう。
 まずは、変数を導入する。変数として、次の五つがある。(カッコ内は、変数を示す代数)
 
      生産量 ( Y
      所得   ( Y'
      消費   ( C )
      貯蓄   ( S )
      投資   ( I )
 
 五つの変数が提出された。ただし、これらの変数はたがいに独立しているわけではなくて、何らかの関係がある。では、どういう関係があるのか? ──そのことを示すには、変数の消去をするとよい。変数は五つあるが、このうちの三つは、他の変数から定義される形で、消去されるのだ。具体的には、 Y' とSとIは消去されるのだ。
 ではさっそく消去の処理に取りかかろう。そのために、一種の恒等式として、次の三つの数式を示したい。
      Y' = Y
      S = Y' − C
      I = Ia(定数)
 この三つの数式が成立するのだ。その理由を、次の@ABで順に示そう。
 
 @ 「所得」の消去
      Y' = Y
 が成立する。つまり、所得( Y' )と、生産量( Y )とは、値が等しい。ゆえに両者はともに「 Y 」という同じ文字で示される。
( ※ この二つの値の値が等しいことは、先に「三面等価の原則」として説明した通り。この話は、詳しく説明すると面倒になる。とりあえずは、このことは天下り的に受け入れてほしい。)
 
 A 「貯蓄」の消去
      S = Y' − C
 が成立する。つまり、「貯蓄」は、「所得」から「消費」を引いた額である。
 この式は、何かを意味しているわけではない。単に「貯蓄」という用語を定義しているだけだ。もちろん、ただの定義にすぎないから、この式は必ず成立する。(ここで定義された「貯蓄」は、日常生活で言う「貯蓄」とほぼ等しい。)
 
 B 「投資」の定数化
      I = Ia(定数)
 が成立する。つまり、投資(I)は定数である。
 この件は、先にも述べた。(U・3の最後で。)投資は、「変化しない量」ではなくて、モデルのなかで「独立変数」として扱われるだけだ。投資の量は、変動することは変動するのだが、金融政策によって調整されるのだ。つまり、投資の量は、「消費」や「生産量」の関数ではない。だから「投資」の量は、モデルのなかでは「定数」として扱われる。
 
 以上において、三つの変数を消去することができた。残るのは、「Y」と「C」という二つの変数だけだ。この二つの変数によって、基本数式を記述することができる。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   基本数式の二つの数式は、二つの変数で記述できる。
   二つの変数とは、「生産量」および「消費」である。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇基本数式の意味   
 
 基本数式を導き出す。先にも示したが、基本数式とは、次の二つの数式だ。
      C = Y − I        (第1式)
      C = gY + h      (第2式)
 この二つの数式が導き出される理由を、次の@Aで説明する。
 
 @ 第1式(生産直線の数式)
 第1式は、
      C = Y − I
 である。この式は、どこから導き出されるのか? その根拠を示そう。
 いきなり結論を言おう。第1式は、次の式と等価である。
      S = I
 この式は、次のことを意味する。
    「貯蓄と投資は、等しい」(金額として)
 このことは、成立するか? 原則として、成立する。金融市場において、資金の「供給」と「需要」を見れば、両者が均衡するからだ。資金の「供給」とは、「貯蓄」のことであり、資金の「需要」とは、「投資」のことである。両者は、市場金利の上下変動を通じて、均衡する。かくて、「貯蓄」と「投資」が一致する。というわけで、この式は成立する。
( ※ ただし、例外もある。金融政策によって、資金の「供給」が人為的に変動させられる場合だ。しかしこれはこれで、別の話題となる。)
 
 さて。すぐ前の式を変形して、第1式にすることができる。これは単なる数学的な操作だ。具体的に示すと、以下の通り。
      S = I
 これは最初の式だ。先の三つの式から、Sを消去する。
      Y' − C = I
 これを得る。さらに、先の三つの式から Y' Y に消去する。
      Y − C = I
 これを得る。この式で適当に移項して、
      C = Y − I
 これを得る。これが第1式だ。この式の意味は、次のことだ。
   「消費は、生産量から投資を引いた額である」
 ここでは、CはYの一次関数になっている。
 
 A 第2式(消費直線の数式)
 第2式は、
      C = gY + h      (gとhは定数)
 である。すぐにわかるとおり、この式は、次の命題を意味する。
      「消費は、所得の一次関数である」(CはYの一次関数である)
 この命題は正しいのだろうか? 実は、正しいとか正しくないとかは、意味がない。この式は、他の根拠から導き出されたものではなくて、モデルとしての仮定である。「第2式は成立するはずだ」と仮定して(公理のように前提として)、その上で、演繹的に理論を構築していく。それが、修正ケインズモデルの理論だ。
 結局、第2式が正しいかどうかは、修正ケインズモデルが正しいかどうかということと、等価である。だから、このあとは、修正ケインズモデルが正しいかどうかを、現実と照合しながら検証すればよい。(物理学の公式が正しいかどうかを、実験結果と照合しながら検証するのと同様。)
 念のために言っておくと、第2式は細かなズレを除けば、基本的には正しいはずだ。この件は、次の[補足]で説明しておく。
 
 [ 補足 ]
 第2式は十分な根拠をもつ。そのことを説明しておこう。まず、数学的には、第2式は次の二つのことを意味する。
   ・ 消費は所得の関数である
   ・ その関数は一次関数である
 前者はどうか? 「消費は所得の関数である」と言えるだろうか? 基本的には、「イエス」と言える。所得が増えれば消費が増えるし、所得が減れば消費が減る。そういう関数関係が見出される。換言すれば、消費は、所得とは無関係に増えたり減ったりすることはない。(一人一人の行動を見れば例外もあるが、国全体を統計的に見れば、「消費は所得の関数である」と言える。)
 後者はどうか? 「その関数は一次関数である」と言えるのか? ひょっとして、もっと複雑な関数ではないのか? ……実は、この問題は、あまり気にしなくてよい。「一次関数である」というのは、ただの近似にすぎないからだ。現実的には、一次関数(図形では直線)ではなくて、多項式(図形ではゆるやかな曲線)となるだろう。が、だとしても、おおまかに、一次関数で近似できる。重要なのは、「一次関数で近似が可能だ」ということだ。もちろん、若干のズレもあるだろう。しかし、ズレがあっても、補正して、ズレを縮小できる。そのためには、あとで補正項を追加すればいい。それだけのことだ。というわけで、若干のズレはあるとしても、基本的には一次関数で記述していいわけだ。
( ※ 若干のズレが気になるならば、次の[注釈]を参照。)
 
 [ 注釈 ]
 第2式では、モデルを一次関数で示している。ここでは発想として、「近似と補正」という発想を取っている。
 古典派の発想は、これと異なる。古典派の発想は、「精確さ」だ。彼らは、モデルを作るとき、一次関数よりも高度な複雑な関数を使う。高度な複雑な関数を使って、値を精確にすることで、議論が精確になる、と思い込む。しかし、そんなことはないのだ。値を精確にすることと、議論を精確にすることとは、別のことである。
 関数の値を精確にするというのは、ズレを縮小するという意味しかない。しかし、ズレを縮小するだけなら、いったん近似したあとで、補正項を追加するだけで済むのだ。とすれば、高度な複雑な関数を使って、値を精確にすることなど、手間がかかるばかりで、意味のないことだ。
 このことを指摘するために、ケインズは次のように語った。
    「精確に間違うよりは、おおまかに正しい方がいい」
    ( I'd rather be vaguely right than precisely wrong.
 そうだ。高度な複雑な関数を使って、値を精確にしても、その関数がもともと現実にそぐわないものであれば、まったく意味がない。値を精確にしながら、大ハズレの結論を出すだけだ。一方、計算はおおまかであるとしても、モデルが現実と合致すれば、おおまかに正しい結論を出すことができる。それこそ大切なことだ。
 ケインズは、そう考えた。本書もまた、同じ立場を取る。その発想が、「近似と補正」だ。ここでは、若干のズレがあっても、おおまかに正しければ、それでいいのだ。
 古典派は、「複雑な現実を示すには、複雑な関数を使えばいい」と考えた。しかしそこでは、関数は複雑だが、発想が単純すぎる。
 実を言うと、あまりにも複雑な現実には、単純な関数を使う方が適しているのだ。どんなに単純な関数であっても、その単純な関数が強い根拠をもてば、理論全体が強い根拠をもつことになるからだ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   基本数式としての二つの数式は、それぞれ次のことを意味する。
   「消費は、生産量から投資を引いた額である」
   「消費は、所得の一次関数である」
   この二つの数式から、強い根拠をもつモデルを構築できる。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇グラフ化   
 
 基本数式とは、次の二つの数式だ。
       C = Y − I
       C = gY + h
 この二つのどちらにおいても、CはYの一次関数となっている。(だからグラフ化すれば直線になる。)
 さて。この二つの数式を、グラフ化したい。では、その方法は? 簡単だ。CはYの一次関数である。ならば、CとYを座標軸とした平面で、一次式のグラフを描けばよい。そのためには、中学生レベルの数学があれば、十分だろう。(やり方がわからない人は、中学の数学教科書を読めばよい。 y = ax + b という一次式をグラフにする方法だ。)
 基本数式の第2式には、gおよびhという定数がある。gは、消費直線の傾きに相当する。hは、消費直線と縦軸との交点に相当するはずだ。gを「限界消費性向」と呼び、hを「消費定数」と呼ぶ。
 
 基本数式をグラフ化するとき、工夫すべきことがある。gの値を二通りにするのだ。次のように。
       g = 0.8
       g = 0.7
 この二通りのgを用いて、グラフ化する。すると、次の図を得ることができる。(先に示したのと同じ図。)
 
[ 第6図 修正ケインズモデル の図 ] 
 

 
 このグラフには、三本の直線が現れる。それぞれ説明しておこう。
 傾きが1である(傾きが45度である)直線。これは、第1式の直線だ。これを「生産直線」と呼ぶ。
 傾きが0.8または0.7である二つの直線。この二つは、第2式の直線だ。これらを「消費直線」と呼ぶ。
 生産直線と消費直線は、二箇所の点(AとB)で交差する。
 点Aは、傾きが45度の直線と、gが0.8の直線との、交点である。
 点Bは、傾きが45度の直線と、gが0.7の直線との、交点である。
 
 さて。交点は二つあるが、二つの交点が同時に二つとも成立するわけではない。一つの時点では、どちらか一方だけが成立する。どちらになるかは、gの値によって決まる。 gの値がどうなるかは、そのときの状況しだいだ。
 gの値は可変的である。gが 0.8 から 0.7 に変化したとしよう。すると、交点はAからBになる。つまり、gの変化に応じて、交点が移動する。このことを「均衡点の移動」と呼ぶ。
 「均衡点の移動」があると、 どうなるか? この件については、次々項で詳しく説明しよう。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   基本数式をグラフ化することができる。
   そのグラフには、一本の生産直線と、二通り(二本)の消費直線がある。
   消費直線の傾きが変わると、直線の交点が移動する。(均衡点の移動)
   ┗───────────────────────────────────
 
◇方程式の解   
 
 前項では、修正ケインズモデルのグラフを示した。このグラフには、生産直線と消費直線との交点が、二つある。では、二つの交点(AとB)は、何を意味するか?
 
 ケインズふうの解釈をするなら、二つの直線の交点は、「均衡点」である。そこは「方程式の解」として与えられる。
 この解釈では、二つの直線は連立方程式を意味する。その連立方程式の解が、均衡点である。ここは最も安定的な点である。もしこの点以外に位置すれば、自然にこの点に近づくようになる。
 この解釈は、これはこれで、別に間違っているわけではない。しかし、この解釈では、「最終的に落ち着く点」が判明するだけであって、そこに至るまでの途中過程は不明だ。
 たとえて言えば、石を投げたとき、「どこに到達するか」という問題には答えられるが、「どのような経路を取るのか」という問題には答えられないのだ。(動的な認識がないわけだ。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   修正ケインズモデルのグラフの交点は、「方程式の解」とも理解される。
   しかし、その解釈では、最終的な到達点がわかるだけであり、不十分だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇数列とスパイラル   
 
 本書では、別の解釈を取る。それは「数列」という解釈だ。
 そもそも基本数式は、次の二つだった。
      C = Y − I               (第1式)
      C = gY + h             (第2式)
 この二つの式を「連立方程式」と見るのが、ケインズふうの解釈だった。しかし本書では、この二つの式を「数列」と見る。つまり、次のように添字をつけて書き直す。
      Cn  Yn − I            (第1式)
      Cn+1= g・Yn + h          (第2式)
 第1式についてのみ適当に移項すれば、この二つの式は次のように書き直せる。
      Yn  Cn + I            (第1式改)
      Cn+1= g・Yn + h          (第2式)
 この二つの式の意味は、それぞれ次の通り。
   ・ Cn から Yn が決まる。
   ・ Yn から Cn+1 が決まる。
 このあと、nに1、2、3、……という自然数を代入しよう。すると Cn Yn が次々と決まっていく。次のように。
   ・ n=1 を与えると、C1Y1が決まる。(ともに初項。)
   ・ 第2式を用いると、Y1からC2が決まる。
   ・ 第1式を用いると、 C2からY2が決まる。
 以下、同様にして、次のように決まっていく。
       Y1 → C2 → Y2 → C3 → Y3 → C4 → Y4 → ……
 こうして、Cn Yn が次々と決まっていく。かくて、あらゆる Cn Yn が決まる。
 
 以上のことは、代数的に示された。このことを、代数的でなく幾何学的に示そう。その図形は、先のグラフにおける階段状の破線となる。──この件を、以下で説明する。(グラフを見ながら読んでほしい。)
 
 最初の状況では、g=0.8 であったとする。そのとき、交点はAである。現状ではこの点にいる。その位置を (Y1,C1) と見なす。(初項の決定。)
 その後、状況が変化して、g=0.7 となったとする。すると、交点はAからBに転じる。しかし現状の点は、Aの位置のままだ。このあとで、現状の点は、点Bをめざして移動していくことになる。では、どういうふうに移動するのか? 実は、その移動していく過程こそ、数列で示される過程だ。具体的には、次の通り。
 最初は点Aにいる。その座標は、 (C1,Y1) である。
 その後、数列の第2式に従って、 Y1から C2 が決まる。その点の座標は (Y1,C2) である。その点の位置は、図では、点Aの下方の点(消費直線とぶつかる点)である。現状の点は、Aからここに移動する。
 その後、第1式改に従って、 C2 から Y2 が決まる。その点の座標は (Y2,C2) である。その位置は、図では、元の点 (Y1,C2) から左方の点(生産直線とぶつかる点)である。現状の点は、今度はここに移動する。
 以後、同様にして、第2式および第1式改に従って、CnYnが次々と決まっていく。それにつれて、新たな点が次々と決まっていく。次のように。
       (Y1,C1) (Y1,C2) (Y2,C2) (Y2,C3) (Y3,C3) → ……
 このように点が次々と移動していくことは、図における階段状の破線をたどることに相当する。(グラフを見ながら、よく理解してほしい。)
 
 まとめてみよう。Cn Yn は、「 Cn Yn 」と「 Yn Cn+1 」という二つの過程を取りながら、
       Y1 → C2 → Y2 → C3 → Y3 → ……
 というふうに値を変えていく。すると、現状の点は、点Aである (Y1,C1) を始点として、次々と移動していく。途中の点にあたる (Yn,Cn) は、点Bにだんだん近づく。そして、nが無限大になったとき、途中の点は点Bに収束する。点Bは収束点である。(なお、点Bの位置は、連立方程式を解くことによって与えられる。)
 
 さて。すぐ前に示したように、
       Y1 → C2 → Y2 → C3 → Y3 → ……
 という図式がある。これは、「循環構造」の図式でもある。この図式が成立するのだから、
 
         ┌─── → ───┐
         C             Y
         └─── ← ───┘
 
 という「循環構造」が成立していることになる。この循環構造では、
   ・   C → Y    (CがYを決める。)
   ・   Y → C    (YがCを決める。)
 という二つの過程がある。このうち、前者の過程を示すのが第1式改であり、後者の過程を示すのが第2式である。つまり、第1式改および第2式は、循環構造を規定しているのだ。
 しかも、循環が進むにつれて、値は一方向へ変化していく。とすれば、この循環構造の過程は、スパイラルの過程でもある。
 かくて、スパイラルの過程は二通りで示されたことになる。代数的には「数列」として示され、幾何学的には、グラフにおける「階段状の破線」として示された。
 結局、修正ケインズモデルによって、スパイラルという現象は、代数的にも幾何学的にも示されるのだ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   修正ケインズモデルによって、スパイラル数学的に説明できる。
   スパイラルは、代数的には、基本数式の二つの式で示される数列のことだ。
   また、幾何学的には、点Aから点Bへの、階段状の破線のことだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
■V・3 修正ケインズモデルの結論   
 
 修正ケインズモデルというモデルを得たあとで、ここから得られる結論を示す。それは、スパイラルにともなう「不均衡の縮小」と「生産量の変動」だ。
 
◇不均衡の縮小   
 
 修正ケインズモデルから演繹的に得られる結論が二つある。そのうちの一つは、スパイラルにともなう「不均衡の縮小」だ。
 スパイラルが進むにつれて、不均衡の幅はだんだん縮小していく。──このことは、次のように説明される。
 
 「不均衡」の幅は、「供給」と「需要」との差として定義される。ここでは、「供給」は「生産量」(Y)であり、「需要」は「消費と投資の和」(C+I)であるから、「供給」と「需要」との差は、「Y」と「C+I」の差である。
 では、その量は? それは、モデルでは、階段状の破線の「縦線」として示される。要するに、不均衡の幅は、図の縦線で示される。
 この縦線は、最初、一番右側の大きな縦線だ。そのあとで、スパイラルが進むにつれて、縦線はだんだん短くなっていく。最終的には、収束点において、縦線の長さはゼロになる。──このとき、不均衡の幅もゼロになる。
 
 収束点では、不均衡の幅がゼロになる。つまり、不均衡が解消される。とすれば、この点を「均衡点」と見なしていいだろう。
( ※ ここでは、いわゆる「縮小均衡」の状況になっている。「縮小均衡」については、あとでまた論じる。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   スパイラルが進むにつれて、不均衡の幅はだんだん縮小していく。
   そのことは、階段状の破線の「縦線」がだんだん短くなることに相当する。
   スパイラルの収束点では、不均衡の幅がゼロになる。(均衡状態)
   ┗───────────────────────────────────
 
◇生産量の変動   
 
 修正ケインズモデルから演繹的に得られる結論が二つある。そのうちの一つは、スパイラルにともなう「生産量の変動」だ。
 スパイラルが進むにつれて、CおよびYの値は、一方向に変動していく。特にYに着目すれば、Y(生産量)が一方向に変動していく。
 場合分けすれば、次のようになる。
   ・ デフレスパイラルのとき   …… 生産量がどんどん減少する
   ・ インフレスパイラルのとき …… 生産量がどんどん増加する
 限界消費性向が低下したときは、生産量が減少するスパイラルが起こる。逆に、限界消費性向が上昇したときは、生産量が増加するスパイラルが起こる。──これらのことは、モデルから明らかだろう。
 ともあれ、「生産量の変動」という結果に留意しよう。
 
 [ 補足 ]
 すぐ前では「モデルから明らかだろう」と述べた。しかし一応、数理的に説明しておこう。(新たに説明をするわけではない。すでに述べた話のまとめだ。)
 デフレスパイラルでは、「循環構造」が成立する。次のように。
      需要減少 → 供給減少 → 需要減少 → 供給減少 → ……
 こうして循環が進むにつれて、「需要」および「供給」の値がどんどん減少していく。つまり、「消費」(C)および「生産量」(Y)がどんどん減少していく。
 ここでは循環構造に、二つの過程がある。次の二つだ。
   ・ 需要減少 → 供給減少
   ・ 供給減少 → 需要減少
 前者を与えるのが第1式改であり、後者を与えるのが第2式である。(少し前に述べたとおり。それぞれ、「C → Y」および「Y → C」に相当する。)
 このうち、前者は原則的に成立するが、後者は成立しないこともある。後者が成立するためには、「所得」の効果が必要だ。「所得」の効果が出れば、循環構造が成立するので、スパイラルが生じる。
 では、「所得の効果がある」というのは、どういうことか? それは、「生産量の変動が、所得の変動に、きっちり反映する」ということだ。そのことは、「 Y' Y が等しいこと」に相当する。
 ついでに言っておくと、「生産量の変動」がどのくらいの量になるかは、間単に計算できる。(基本数式を方程式と見なして、連立方程式を解けばよい。前述の通り。)なお、この量の計算は、「乗数効果」の計算と本質的には同じである。ケインズのやったことは、そういうことだ。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   スパイラルが進むにつれて、生産量が変動する。
   どのくらいの量で変動するかは、モデルから定量的に計算される。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇背反原理   
 
 すぐ前の二つの項をまとめよう。すると、「悪魔の見えざる手」の核心が解き明かされる。そうだ。ここまでマクロのモデルについて長々と説明してきたが、そのすえにようやく、核心となる秘密が白日の下にさらされる。
 まず、新たな概念を示そう。それは「背反原理」という概念だ。
 
 振り返ると、すぐ前の二つの項では、次の二つのことを示した。
   ・ 不均衡の縮小
   ・ 生産量の変動
 この二つは、特に不況のときには、次の二つだ。(「変動」は「減少」である。)
   ・ 不均衡の縮小
   ・ 生産量の減少
 不況のときには、この二つが同時に起こる。そのことを、「背反原理」と呼ぶ。
 
 「背反原理」という概念は重要である。そのわけを説明しよう。
 この二つは、そもそも一枚の葉の裏表のような関係にある。なぜなら、スパイラルが進むにつれて、この二つは同時に起こるからだ。
 不況のときには、スパイラルにともなって、この二つが同時に起こる。一方が起これば、他方も起こる。そのことに留意すべきだ。なぜなら、従来の経済学は、この二つを別々のことと見なしてきたからだ。すると、勘違いが生じる。
 
 まず、次の問題がある。
 「スパイラルが進むことは、良いことか悪いことか?」
 この問題に、古典派は、「良い」と答えた。なぜなら二つのうち、前者だけに着目したからだ。なるほど、前者だけに着目すれば、こう言える。
 「スパイラルが進むと、『不均衡の縮小』が起こる。それは、均衡点に近づくことであり、均衡を実現させることである。だから、好ましいことだ」
 かくて古典派は、スパイラルが進むことを「良い」と評価した。
 
 一方、「背反原理」を理解によれば、スパイラルが進むときには、前者だけでなく後者も起こっているのだ。「不均衡の縮小」だけでなく、「生産量の減少」も起こっているのだ。
 ここで、「生産量の減少」は、良いことか悪いことか? 不況のときには、悪いことである。(なぜなら、倒産や失業を増やすから。)
 というわけで、スパイラルが進むときには、「良いこと」と「悪いこと」との両方が同時に起こっていることになる。決して一方だけが起こっているのではないのだ。──そのことを、「背反原理」は教える。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   スパイラルが進むと、「不均衡の縮小」と「生産量の変動」が起こる。
   この二つが同時に起こることを、「背反原理」と呼ぶ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇「悪魔の見えざる手」   
 
 ここで、肝心のことを述べよう。前項では、「良いこと」と「悪いこと」とを示した。では、「良いこと」と「悪いこと」を差し引きして評価するべきか? ちょうど、プラスとマイナスを差し引きするように。実は、そうではない。
 なぜなら、「良いこと」というのは、実際には、「良いこと」ではないからだ。「良いこと」とは、「良いと見えること」であるにすぎず、本当は「悪いこと」なのだ。いわば、良い子のフリをする悪い子のように。あるいは、天使のフリをする悪魔のように。──ここに、「悪魔の見えざる手」の秘密がある。
 
 「不均衡の縮小」という事象は、一つの言葉で呼ばれる。しかしその実態には、二通りがある。次のように。
   ・ 供給の減少
   ・ 需要の増加
 この二つは異なる。しかしながら、「不均衡の幅」に着目する限りは、どちらも同じであるように見える。次のように。
   ・ 供給の減少 …… 「不均衡の幅」を縮小する
   ・ 需要の増加 …… 「不均衡の幅」を縮小する
 たとえて言おう。今、供給が五二〇兆円で、需要が五〇〇兆円である。供給と需要の差は二十兆円だ。これが不均衡の幅だ。このあと、不均衡を解消するには、二通りある。
   ・ 供給の減少で …… 供給を五二〇兆円から五〇〇兆円に減らす。
   ・ 需要の増加で …… 需要を五〇〇兆円から五二〇兆円に増やす。
 前者の場合には、五〇〇兆円で均衡する。後者の場合には、五二〇兆円で均衡する。この二つは別々のことだ。しかるに、「不均衡の縮小」という点だけに着目すれば、どちらも均衡状態だから、どちらも同等のことだと見える。──ここに、勘違いがある。
 しかし、マクロ的な発想をすれば、両者ははっきり区別される。前者はGDPの縮小をもたらし、後者はGDPの拡大をもたらす。ゆえに、「供給の減少」は「悪いこと」だが、「需要の増加」は「良いこと」だ。両者には正反対の評価が下される。
 ミクロ的な発想をすれば、両者はろくに区別されない。前者も後者も、「不均衡の縮小」をもたらす。ゆえに、「供給の減少」も「需要の増加」も、「良いこと」である。
 古典派は、ミクロ的な発想をする。そのせいで、「供給の減少」と「需要の増加」の両者について、「どちらも均衡をもたらすのだから、どちらも同じように良いことだ」と結論する。──この勘違いこそ、悪魔にたぶらかされるということなのだ。
 
 両者の違いをはっきりと理解しよう。その際、マクロ的な視点が大切だ。
 「供給の減少」は、「不均衡の縮小」をもたらすので、需給関係にとって「良いこと」と見える。たしかに、ミクロ的に見るだけなら、そう見えるだろう。しかし、マクロ的に見るなら、「不均衡の縮小」は、「生産量の縮小」をもたらすので、「悪いこと」なのだ。
 生産量が縮小した状態。それは、「縮小均衡」の状態である。そこを「天国だ」と古典派は主張する。しかし、たとえ天国に見えても、そこは地獄なのだ。そこに近づけば近づくほど、生産量が縮小するので、倒産と失業が増えて、状況はどんどん悪化していく。しかるに、そういう事実を無視して、「不均衡の幅」だけに着目すると、「縮小均衡」に近づくことで状況はどんどん改善されていくと見える。地獄に近づきながら、天国に近づきつつあると錯覚する。──こうして、悪魔の手にたぶらかされる。
 なるほど、「縮小均衡」という状況では、均衡が実現する。しかし、そんな均衡は、めざすべき均衡ではないのだ。悪魔が「そこをめざせ」と告げても、そこをめざすべきではないのだ。めざすべきは、縮小均衡ではない別の均衡点だ。すなわち、点Bという均衡点でなく、点Aという均衡点だ。この二つの均衡点を、はっきりと区別する必要がある。──修正ケインズモデルを理解することで、そのことがわかる。
 
 結局、悪魔が悪魔であるゆえんは、経済的な事実そのものにあるのではない。事実はただの事実であるにすぎない。
 しかるに、人間が錯覚すると、事実を誤認する。本来は有害であるものを、有益だと勘違いする。薬だと思いながら、毒薬を取る。「これを飲めば良くなる」と信じて、それを飲み込む。──かくて、ひどい被害を受ける。
 彼はそのあと、「悪魔にだまされた」と恨む。しかし悪魔などは、どこにもいない。彼に毒を飲ませたのは、悪魔ではなくて、おのれの錯覚なのだ。それこそ、悪魔の正体だ。悪魔は、人のそばにいるのではなく、人の内部にひそんでいるのだ。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   不況のスパイラルでは、「不均衡の縮小」と「生産量の減少」が起こる。
   ┃前者だけに着目すると、「縮小均衡」をめざすようになる。
   ┃すると「生産量の減少」のせいで、倒産と失業が多大に発生する。
   ┃だから、両者を認識するべきだ。さもないと、地獄を天国と勘違いする。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇まとめ   
 
 前項では、「悪魔の見えざる手」について、マクロ的に説明した。本項では、先にミクロの章で述べた話と関連させつつ、話をまとめてみよう。
 
 「悪魔の見えざる手」とは何か? それは本質的には、「神の見えざる手」とほぼ同じものである。すなわち、「均衡点をめざそう」という力である。──ただし、同じものが、状況によって別の姿を取る。では、同じものとは、何か? このあと、二通りに区別される。次の@Aで示す。
 
 @ ミクロ的に
 ミクロ的には、どうか? 同じものとは、「ワルラス的調整過程の力」である。その力は、ミクロのモデルの均衡点をめざす力(下向きの力)である。
 この力が、状況の差に依存して、別の姿を取る。次のように。
   ・ 「下限直線割れ」がないとき …… 「神の見えざる手」となる
   ・ 「下限直線割れ」があるとき …… 「悪魔の見えざる手」となる
 同じものが状況しだいで、「神の見えざる手」となったり「悪魔の見えざる手」となったりする。
 しかし古典派は、この違いを理解できない。すると不況のとき、「神の見えざる手」に従おうとして、「悪魔の見えざる手」に従う。均衡点に近づくことは善だと信じながら、企業の赤字幅を増やす。かくて、状況を改善させようとして、状況を悪化させてしまう。
 
 A マクロ的に
 マクロ的には、どうか? 同じものとは、「スパイラルの進行」である。「スパイラルの進行」とは、マクロのモデルの均衡点に向かうことであり、それにともなって、「不均衡の縮小」と「生産量の減少」がともに生じる。
 この二つのうち、「生産量の減少」が問題だ。これは、良いか悪いか?   次のようにまとめられる。
   ・ 下限直線割れがないとき …… 「生産量の減少」は良くも悪くもない。
   ・ 下限直線割れがあるとき …… 「生産量の減少」は悪い。
 下限直線割れがないときには、「生産量の減少」は良くも悪くもない。たとえ企業の売上げが減ったとしても、赤字になるわけではないから、特に問題はない。また、価格低下によって企業の利益が減ったとしても、その分、価格低下によって消費者が得をするから、差し引きすれば、これも特に問題はない。
 下限直線割れがあるときには、問題がある。下限直線割れにともなって、企業が赤字を出すので、倒産・失業が生じる。これはひどいデメリットだ。
 しかし古典派は、「生産量の減少」を認識しない。すると不況のとき、「不均衡の縮小」だけにとらわれて、スパイラルの進行を是認する。「生産量の減少」をあえて招いて、倒産や失業をあえて招く。均衡点に近づくことは善だと信じながら、倒産や失業をどんどん増やす。かくて、状況を改善させようとして、状況を悪化させてしまう。
 
 以上の@Aをまとめてみよう。
 「悪魔の見えざる手」とは、ミクロ的には「ワルラス的調整過程の力」であり、マクロ的には「スパイラルの進行」である。そのどちらも、「均衡点に近づく」という結果をもたらす。
 では「均衡点に近づく」ことは、良いことなのか悪いことなのか? これは、下限直線割れの有無に依存する。下限直線割れがあるときには、次のことが生じる。
   ・ ミクロ的に …… 過剰な価格低下
   ・ マクロ的に …… 生産量の減少
 そのどちらも、倒産・失業というデメリットをもたらす。だから、下限直線割れのときには、「均衡点に近づく」ことは、良いことではなく悪いことなのだ。
 しかるに、下限直線割れのある状況でも、下限直線割れのない状況と同様に、メリット(と見えること)は生じている。次のように。
   ・ ミクロ的に …… 市場の最適化
   ・ マクロ的に …… 不均衡の縮小
 古典派は、この二つだけにこだわる。ゆえに、「均衡点に近づくことは、良いことだ」と結論する。なるほど、それはそれで、必ずしも間違っているわけではない。
 ただし、「下限直線割れ」が起こっているときには、こういう小さなメリットとは別に、大きなデメリットが生じるのだ。小さなメリットを得ても、大きなデメリットをこうむるのだ。──そのことを理解すべきだ。さもないと、メリットだけにとらわれて、デメリットを見失ってしまう。あげく、「病気は治りました、患者は死にました」というハメになりながら、正しいことをしたつもりになる。
 正しい概念をもつべきだ。さもないと、デメリットをデメリットとして認識できないせいで、「悪魔の見えざる手」を「神の見えざる手」と思い込んでしまう。──その錯覚。その錯誤。そこに、「悪魔の見えざる手」の本質がある。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   「悪魔の見えざる手」は、ミクロ的・マクロ的に説明される。
   ┃ミクロ的にもマクロ的にも、メリットとデメリットがともに生じる。
   ┃だが、メリットに目を奪われると、デメリットに気づかない。
   ┃そのせいで、均衡点に近づくことを、メリットの面だけで認識する。
   ┃この錯覚こそ、経済における「悪魔の見えざる手」の本質だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇縮小均衡の比喩   
 
 語るべきことはすでに語った。ただしついでに、補足的な説明を加えておこう。
 「悪魔の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」であるゆえんは、均衡点をめざすことが「良い」と見えて「悪い」ことにある。そしてここでは、「縮小均衡は悪い」ということが肝心である。
 では、その理由は? 「倒産・失業が増えるから」というふうに、先に説明した。しかしこの説明では、読者はすんなり納得できないかもしれない。そこで、直感的に理解できるように、たとえ話をしよう。
 
 「半分病気の人が百人いる」という状況がある。「半分病気」というのは、どっちつかずで、不安定な状況である。だからこのあと、安定した状況へ移行するべきだ。移行先は、二つある。
   ・ 「五十人が健康になり、五十人が死ぬ」という状況。(縮小均衡)
   ・ 「百人全員が健康になる」という状況。(正常)
 この二つの状況がある。どちらも安定した状況である。では、移行先としては、どちらが好ましいか? もちろん、後者が好ましい。
 どうすれば前者でなく後者になれるか? 放置すれば、前者の状況になってしまうだろう。後者の状況にするには、放置するかわりに、何らかのことが必要だ。具体的には、医者の治療が必要だ。──というわけで、「医者の治療をなすべきだ」と主張するのが、本書の立場だ。
 ただし、である。医者の治療が有効なのは、「百人がすべて半病人である」という不安定な状況に留まっている場合に限られる。いったん縮小均衡になると、「五十人が健康になり、五十人が死ぬ」となる。そうなってしまえば、「百人全員が健康」という元の状況に戻すことはできない。なぜなら、死んだ人間は生き返らないからだ。
 ゆえに、「縮小均衡をめざせ」という方針は、有益ではなく有害なのだ。縮小均衡という状態は、健康な人間が増えるので、「少しはマシ」と見えるかもしれない。しかし本当は、そこは「最悪」の状況なのである。
( ※ この件については、あとでまた説明する。「不可逆性」という用語を用いて。)
■V・4 修正ケインズモデルの細目   
 
 修正ケインズモデルについて、細かな話題を取り上げる。あまり重要な話題ではない。面倒なら、この箇所は飛ばして、次章に進んでもよい。
 
◇スパイラルの細目   
 
 マクロ経済学の核心は、スパイラルである。その原理については、すでに示した。ただし別途、周辺的な話題もある。これらについてざっと言及しておこう。いずれもモデルについての話題だ。以下の@〜Eで示す。
 
 @ きっかけ
 スパイラルには、「きっかけ」となるものがある。いわば、雪崩のきっかけのように。それは、モデルにおいては、何にあたるか? 「限界消費性向の変化」である。
 先の例で言えば、限界消費性向が 0.8 から 0.7 に変化した。これがスパイラルの「きっかけ」となる。
( ※ 限界消費性向の変化は、現実世界における「消費心理の変化」に相当する。)
 
 A きっかけとスパイラルの関係
 「きっかけ」のあとで、「スパイラル」が発生する。
 この両者は、どういう関係にあるか? 「原因」と「結果」か? いや、むしろ、「最初の音」と「こだま」のような関係だ。最初の音が消えたあとも、こだまは残る。
 景気悪化という変動は、数年間に渡ってずっと続くものだ。その間、「原因」ないし「きっかけ」がずっと継続的に発生しているわけではない。たとえば、「経済体質の低下」という「原因」がずっと継続的に次々と発生しているわけではない。「消費心理の後退」という「きっかけ」が、最初にいっぺんあっただけだ。そのあとで、「こだま」のにように、スパイラルがずっと続くのだ。それが継続的な変動をもたらす。
 
 B スパイラルの収束
 スパイラルが進むにつれて、不均衡の幅はだんだん小さくなっていく。そして最終的には、スパイラルは収束する。
( ※ 古典派の景気循環モデルでは、「収束」と「発散」の両方が想定されている。本書のモデルは、「収束」だけがある。そのことが大事だ。)
 
 C スパイラルの途中停止
 スパイラルは、収束点に向かっていく途中で、停止することがある。これは、スパイラルの過程の「遮断」である。それが起こるのは、どういう場合か? 「所得」の効果がない場合だ。(その理由も、それが起こる箇所も、先に述べたとおり。)
 
 D スパイラルの進行の時間
 スパイラルの進み方は、ゆるやかだ。つまり、収束点(均衡点)に達するまでに、かなり長い時間がかかる。
 従来の経済学の発想では、均衡点に達するまでの時間は考慮されない。しかし本書の発想では、収束点(均衡点)に達するまでの時間は、十分に考慮される。実際、現実の経済現象でも、デフレスパイラルやインフレスパイラルが進むには、かなりの時間がかかる。
 この時間には、二種類ある。一つは、「需要 → 生産量」という過程の時間であり、もう一つは、「生産量 → 所得」という過程の時間である。(前者は、需要の変動が生産量の変動に反映するまでのタイムラグ。後者は、生産量の変動が所得の変動に反映するまでのタイムラグ。これは、「賃金の硬直性」というふうにも呼ばれる。)
 
 E 収束点と均衡点
 スパイラルの最終的な到達点は、「収束点」である。この「収束点」は、「均衡点」と見なしてもいいだろう。ただし厳密には、次のように区別されるべきだ。
   ・ マクロ的な均衡点 …… マクロのモデルにおける均衡点。
                      (数列の収束する点)
   ・ ミクロ的な均衡点 …… ミクロのモデルにおける均衡点。
                      (需要曲線と供給曲線の交点)
 この両者は、どちらも「均衡点」と呼ばれるので、混同されやすい。しかし厳密には、違いがある。その違いを示すためには、こういうふうに別の用語を用いるといい。
( ※ 「マクロ的な均衡点」に達した状況と、「ミクロ的な均衡点」に達した状況は、一致するだろうか? 実は、必ずしも一致しない。この件は、話が面倒になるので、本項では述べず、次項以降で詳しく論じる。)
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   スパイラルについては、細かな話題がいろいろとある。
   きっかけや、途中の過程や、最終的な到達点などについて。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇マクロとミクロの関連   
 
 マクロのモデルとミクロのモデルの関連を示そう。
 そもそも、マクロのモデルを導入したのは、何のためだったか? ミクロのモデルの動的な変動を探るためだった。そして今、マクロのモデルを得た。とすれば、マクロの成果をミクロに還元することで、ミクロのモデルについて結論を出すことができる。以下の@〜Gで示そう。
( ※ ただし、話題は不況の場合に限られる。)
 
 @ 課題
 まず、課題を示す。
 「ミクロのモデルは動的に変動するが、どのように変動するか?」
 これが課題だ。ここで、変動するものは、ミクロのモデルにおける「需要曲線」と「供給曲線」である。(「下限直線」については考慮しない。)
 すでにマクロのモデルを得た。これから、次のことがわかる。
 「スパイラルの過程では、需要と生産量と所得という三つの要素が、どんどん縮小していく。最終的には、三つの値は一致する。(収束点で)」
 このことは、ミクロのモデルでは、どのような変動を意味するか?
 
 A 仮説
 一つの解釈として、次のような解釈がある。
 「ミクロのモデルでは、需要曲線と供給曲線がだんだん左シフトしていく。マクロのモデルにおいて、三つの要素がマクロ的な均衡点に達したときに、ミクロのモデルにおいても、ミクロ的な均衡点に達する」
 この解釈は、「マクロ的な均衡点に達したときに、同時に、ミクロ的な均衡点に達する」という解釈だ。これは一つの仮説である。この仮説は自然に思える。しかし、この仮説はあまり正しくはない。そのわけを以後で説明しよう。
 
 B マクロのモデルからミクロのモデルへ
 仮にAの解釈が成立するとしよう。すると、マクロにおける@の現象は、ミクロにおいては、次の二つのことに相当する。
 「需要曲線について。……最初に、需要曲線が一挙に大きく左シフトする。そのあとで、需要曲線はだんだん左シフトしていって、最終的には停止する。」
 「供給曲線について。……最初に、需要曲線が一挙に大きく左シフトするが、そのとき供給曲線は何も変動しない。そのあとで、需要曲線を追いかける形で、供給曲線がどんどん左シフトしていく。最終的には、需要曲線に追いつく。」
 この二つのうち、前者は正しい。しかし、後者はあまり正しくない。前者についてはCで説明し、後者についてはD以降で説明しよう。
 
 C 所得の効果
 マクロにおいてスパイラルが進むとき、ミクロにおいて需要曲線はどんどん左シフトしていく。まさしくその通りだ。理由は、所得の低下である。
( ※ 古典派は、Cのことを理解しない。逆に、「需要曲線が変動しなければ」と虚偽の仮定を取る。こういう静的な認識をするところに、古典派の根本的な錯誤がある。)
 
 D 生産量の変動
 マクロにおいてスパイラルが進むとき、ミクロにおいて供給曲線はどんどん左シフトしていくだろうか? 一見、「イエス」と思える。というのは、マクロ的に「生産量」が減少していくからだ。
 しかしながら、実際はそうではない。「生産量」が減少していくとき、供給曲線は左シフトしないのだ。供給曲線は固定されたまま、「生産量」だけが減少しているのだ。そのことは、次のEのことからわかる。
 
 E 生産能力と稼働率
 生産量とは何か? 次の式で与えられる数値だ。
       生産量 = 生産能力 × 稼働率
 生産量が減少するという現象には、二通りがある。「生産能力」が低下する場合と、「稼働率」が低下する場合だ。では、スパイラルの過程では、二つのうちのどちらが起こるか? 通常、次のようになるはずだ。
   ・ 不況の直後   …… 「稼働率」が低下する
   ・ 不況の継続後 …… 「生産能力」が低下する
 時間がたつにつれて、前者から後者へ移行する。では、その時期はいつか? それはモデルとは別の要因で決まる。つまり、経営者の経営判断と、企業の内部蓄積だ。
 不況の直後なら、先行きが不透明なので、企業は「稼働率」を低下させるだけだ。しかし、不況の継続後では、先行き楽観できないので、「設備廃棄」をする。仮に「設備廃棄」をしなければ、内部蓄積がどんどん失われているので、赤字に耐えきれず、「倒産」する。かくて、「設備廃棄」または「倒産」という形で、「生産能力」が低下する。
 
 F モデル的な結論
 すぐ前のEのことを、ミクロのモデルで言い換えると、こう結論できる。
 不況の直後には、「稼働率の低下」があるだけだ。このときモデルでは、「供給曲線の左シフト」はまだ起こっていない。(需要曲線の左シフトがあり、それにともなって均衡点が供給曲線上を左下へ移動するだけだ。)
 不況の継続後には、「生産能力の低下」が起こる。このときモデルでは、「供給曲線の左シフト」が起こっている。
 この二通りのことは、どちらも「生産量の低下」をもたらす。しかし理由は、それぞれ異なる。前者の理由は、「需要曲線の左シフト」であり、後者の理由は、「供給曲線の左シフト」である。どちらでも「生産量の低下」があるが、だからといって、同じ現象であると勘違いしてはならない。(前者では価格低下が起こるが、後者では価格上昇が起こる。前者では不均衡が拡大するが、後者では不均衡が縮小する。不況の初期には前者だけが起こり、しばらく時間を経てから後者が起こる。)
 
 G まとめ
 まとめて言おう。ミクロのモデルで動的に認識するとき、「需要曲線の左シフト」と「供給曲線の左シフト」が考えられる。(不況のとき。)
 「需要曲線の左シフト」がどういうふうに起こるかは、マクロのモデルによって説明される。その過程では、需要と生産量が循環しながら、どちらも縮小していく。
 「供給曲線の左シフト」がどういうふうに起こるかは、マクロのモデルによって説明されない。その過程は、マクロのモデルとは無関係であり、企業の状況によって決まる。では、どんな? 具体的には、次の二通りがある。
 第1に、速い場合。──需要曲線が左シフトしたあと、すぐさま供給曲線が左シフトする。(通常、これはありえない。企業はまず、稼働率を低下させるだけだ。)
 第2に、遅い場合。──需要曲線が左シフトしたあと、供給曲線が左シフトするまで、しばらくの時間がかかる。(通常、こうなる。しばらくの間、企業は赤字を出しながら耐えている。)
 この二つの場合がある。そのいずれでも、「稼働率の低下」のあとで、「生産能力の低下」が起こる。つまり、「需給ギャップ」が開いたあとで、「需給ギャップ」が縮小していく。最終的には、「需給ギャップ」が解消する。そのとき、「生産能力」と「需要」とがほぼ一致して、「稼働率」が百%に近くなる。すると、ミクロ的な不均衡が解消する。(つまり、下限直線割れが解消する。)
  要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   需要曲線の左シフトは、マクロのモデルのスパイラルとして説明される。
   供給曲線の左シフトは、「生産能力の低下」に相当する。
   供給曲線の左シフトは、需要曲線の左シフトに遅れることがある。
   なぜなら、「生産能力の低下」の前に、「稼働率の低下」があるからだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇縮小均衡の是非   
 
 前項の最後では、「供給曲線の左シフト」について、速い場合と遅い場合との、二つの場合を想定した。では、どちらが好ましいのだろうか? ──この問題は、縮小均衡の是非という問題に相当する。(「供給曲線の左シフト」が速いときほど、縮小均衡に速く近づく。)──この問題について考えてみよう。
 
 @マクロとミクロ
 マクロ的な均衡点に達する時期と、ミクロ的な均衡点に達する時期とは、同じではない。──このことは、次のように説明される。
 マクロ的な均衡点に達する時期は、マクロのモデルの収束点に達する時期である。この時点では、需給は均衡しているが、それは「稼働率の低下」によってなされただけであるから、潜在的な「需給ギャップ」はまだ残っている。
 ミクロ的な均衡点に達する時期は、「生産能力の低下」が済んだ時期だ。この時点では、「生産能力の低下」のせいで、「需給ギャップ」は解消する。このとき、ようやく、ミクロのモデルで不均衡が解消する。つまり、下限直線割れがなくなる。──これが「縮小均衡」の状況だ。
 
 A 縮小均衡
 では、縮小均衡の状況は、良いことなのか? 
 古典派ならば、「良い」と結論するだろう。しかし、本当は「悪い」のだ。なぜなら、「生産量の減少」にともなって、倒産・失業が多大に発生しているからだ。(この件は、前節の最後で示したとおり。)
 ただし、次のような主張も生じるだろう。
 「いったん縮小均衡という形で均衡を達成してから、その後、生産量を増やせばよい」
 つまり、「途中経過の地点として、縮小均衡を利用しよう」という発想だ。しかしこの発想は成立しない。そのことを、次に示す。
 
 B 回復の可能性
 背反原理からわかるとおり、縮小均衡になると、生産量が減っている。
 さて。その後、生産量を回復させたい。ところが、生産量を回復させることが可能だとは限らない。対比的に示せば、次の二通りがある。
   ・ 回復可能
   ・ 回復不可能
 つまり、生産量が減ったあとでは、生産量の回復が「可能」な場合と「不可能」な場合があるのだ。
 ところが、Aの発想では、「回復可能」だけが前提とされている。この前提が、そもそも間違っているのだ。なぜなら、その前提が成立しない場合もあるからだ。
 
 C 稼働率と生産能力
 縮小均衡のあとで、「回復可能」の場合と「回復不可能」の場合とがある。両者は、どう区別されるか? それは、次の通り。
   ・ 回復可能    …… 生産量の減少が「稼働率の低下」による場合
   ・ 回復不可能   …… 生産量の減少が「生産能力の低下」による場合
 前者の場合、回復は可能だ。なぜか? 稼働率が下がったあとで、稼働率を上げればいいからだ。それはもちろん可能だ。
 後者の場合、回復は不可能だ。なぜか? 生産能力が下がったあとで、生産能力を上げようとしても、生産能力は容易に上がらないからだ。需要が増えても、供給能力に制限されて、生産量は元の水準に戻らない。
( ※ 「縮小均衡」になったとき、生産能力が下がったとしよう。そのあと、需要が増えると、どうなるか? 生産量が増加するか? いや、生産量は変わらず、物価が上昇するのだ。すなわち、インフレだ。)
 
 D 供給力の崩壊
 「生産能力は容易に上がらない」とすぐ前で述べた。このことを説明しておこう。
 生産能力は、容易に増えたり減ったりするものではない。生産能力を減らすことは容易だが、生産能力を増やすことは容易ではない。破壊は容易だが、創造は容易でない。そういう意味の不可逆性がある。
 この不可逆性に着目して、「生産能力の低下」のことを「供給力の崩壊」と呼ぼう。「供給力の崩壊」には、次のような例がある。
   ・ いったん廃棄した設備は、元に戻らない。
    (トンカチで壊した設備は、トンカチを逆に動かしても直らない。)
   ・ いったん損なわれた労働力は、元に戻らない。
    (失業した労働者は、失業中に技能が錆びてしまう。)
 設備であれ、労働者であれ、生産能力というものは、いったん失われたあとでは、元に戻らないのだ。元に戻すためには、莫大なコストがかかる。そして、そのコストを無視するわけには行かない。
 結局、「金は天から降ってくる」というふうに、コスト無視の発想をするのでない限り、「縮小均衡は善である」ということは成立しないのだ。
 
 E 錯覚
 「供給力の崩壊」は悪である。ゆえに、縮小均衡は悪である。(特に、生産量の減少が大幅であれば。)──これが、縮小均衡に対する評価だ。
 ところが、縮小均衡を「善」であると錯覚することもある。それは、背反原理の半面である「不均衡の縮小」だけを見ることによる。
 縮小均衡のとき、「不均衡の縮小」にともなって、企業業績は改善していく。(ただし、倒産しなかった企業だけだが。)
 そこで、企業の側だけを見る経済学者(サプライサイド)は、企業業績の改善だけを見て、「縮小均衡は善である」と判断しがちだ。しかしこれは、経済学者の陥りやすい罠である。国全体の経済と、個別企業の経営とを、混同しているのだ。注意しよう。
 
 F 結論
 国全体の経済を見れば、「供給力の崩壊」をもたらす縮小均衡は、悪である。それはいわば、爆弾でたくさんの工場を破壊するかわりに、赤字でたくさんの工場を破壊することだ。(一種の経済的な自殺行為。)
 しかしながら、放置している限り、否応なしに「縮小均衡」に向かってしまうのだ。つまり、必然的に「死」に向かってしまうのだ。
 では、どうすればいいか? 放置しても駄目なのであれば、放置しなければいい。つまり、何らかの対策を取ればよい。では、どういう対策を? 
 この問題は、「景気回復のために、どうすればいいか?」という問題である。この問題に答えるためには、「景気変動とは何か」を、あらかじめ理解しておく必要がある。
 というわけで、いったん章を改めて、次章でその話をする。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   縮小均衡のときには、「生産量の減少」が起こる。(背反原理ゆえ)
   これは、「稼働率の低下」と、「生産能力の低下」の二通りがある。
   前者の場合はともかく、後者の場合には、生産量を回復できない。
   ┃なぜなら生産能力は、いったん低下すると、容易には戻せないからだ。
   ┃しかるに、放置する限り、必然的に縮小均衡に向かう。
   ┃だから、放置しなければいい。具体的な話は、次章で。
   ┗───────────────────────────────────

 
●第W章 応用編   
 
 経済の基本については、ミクロおよびマクロの両面で、すでに説明した。こうして基本を理解したあとで、経済一般について広く見渡す。特に、「景気回復のためには、どうすればいいか?」という問題に答える。
( ※ 詳しくは述べず、核心だけを簡単に示す。)
 
■W・1 景気変動   
 
 ここまでの説明では、景気変動について考えるとき、不況を例としてきた。これは、「生産量が減る」というタイプの景気変動である。一方、「生産量が増える」というタイプの景気変動もある。そして、後者をめざすのが、景気回復策だ。──というわけで、この二つのタイプを並べつつ、景気変動一般について考察する。
 
◇基本認識   
 
 景気変動一般について考察することにしよう。
 まず、基本的な認識がある。すでに示したように、ミクロとマクロにおいて、それぞれのモデルを使って、原理的なことを理解した。特に、次の@ABの三点が大切だ。
 
 @ マクロ的な発想
 景気変動は、マクロ的な現象である。なのに、ミクロ的な現象だと思い込むと、古典派のような勘違いをするようになる。たとえば、次の主張のように。
   ・ 各企業が個別に収益改善すればよい
   ・ 市場の阻害物を除去すればよい
 こういうミクロ的な発想を捨てて、マクロ的な発想を取るべきだ。
 
 A 生産量
 マクロ的な発想とは? 大事なのは、次の核心を理解することだ。
 「景気変動は、生産量の変動のことであり、物価の変動のことではない。」
 マネタリストはここを誤解する。インフレやデフレを貨幣的な現象と見なしてから、インフレやデフレを物価上昇率によって定義する。しかし物価上昇率よりも、生産量にこそ注目すべきだ。
 
 B スパイラル
 生産量の変動は、どういうふうに起こるか? それは、次のように説明される。
 「生産量の変動は、スパイラルという構造で起こる。」
 ここでは、次のことが重要だ。
   ・ スパイラルという構造には、循環構造がある。
   ・ 循環構造では、「需要」と「生産量」の循環がある。
   ・ この循環には「所得」が介在している。
 
◇景気変動の原理   
 
 景気変動について考えよう。景気変動には、生産量の減る「景気悪化」と、生産量の増える「景気好転」とがある。両者は、変動の方向は逆だが、原理は同様である。景気変動の原理は、以下のようにまとめることができる。
 
 @ モデル
 モデルとしては、修正ケインズモデルを使えばよい。「景気悪化」も「景気好転」も、同じモデルを使う。(変動の方向が違うだけだ。)
 
 A きっかけ(限界消費性向の変化)
 景気変動のきっかけは、「限界消費性向の変化」である。ただし、方向の違いに応じて、きっかけは、次のように異なる
   ・ 景気悪化のきっかけ …… 限界消費性向の低下
   ・ 景気好転のきっかけ …… 限界消費性向の上昇
 
 B スパイラル
 きっかけのあとで、スパイラルが起こる。スパイラルの過程は、修正ケインズモデルで示される。進む方向は逆なので、次のように対比される。
   ・ 景気悪化のスパイラル …… 生産量は減る
   ・ 景気好転のスパイラル …… 生産量は増える
 
 C 不均衡の縮小
 スパイラルが進むにつれて、不均衡の幅が縮小していく。(景気悪化でも、景気好転でも。)
 特に景気悪化の場合、「不均衡の縮小」と「生産量の減少」が同時に起こる。ここでは、メリットとデメリットが同時に発生する。(背反原理。)
 
◇下限と上限   
 
 生産量の変動には、範囲がある。つまり、下限と上限がある。この下限と上限は、次の@Aのことだ。
 
 @ 生産量の下限
 生産量の下限は、黒字を出す「稼働率」の下限で決まる。この下限を越えて価格が下がると、企業は赤字を出す。それが、「下限直線割れ」の状況だ。
 
 A 生産量の上限
 生産量の上限は、「生産能力」の上限で決まる。設備や人員には、生産能力の最大限度がある。これは、ミクロのモデルでは、右方にある垂直線である。この垂直線を「上限直線」と呼んでもよい。)
 
 この@Aの「生産量の下限」と「生産量の上限」は、ミクロのモデルの事情で決まるが、具体的な生産量の値は、マクロの数値で示される。ミクロとマクロは、関連する。
 
◇均衡区間   
 
 生産量の「下限」および「上限」で挟まれた範囲を、「均衡区間」と呼ぼう。均衡区間の「中」と均衡区間の「外」では、状況が異なる。次の@Aのように。
 
 @ 均衡区間の中
 均衡区間の中では、ミクロ的に均衡が達成される。ここでは、生産量にそこそこの変動があっても、特に問題はない。生産量の大小により、状況は次の二通りに大別される。
   ・ 生産量は大 …… 多く働いて、多く稼いで、多く消費する
   ・ 生産量は小 …… 少し働いて、少し稼いで、少し消費する
 そのどちらであってもいい。どちらにするかは、国民のライフスタイルの問題であって、経済学の問題ではない。(良し悪しはない。)
 
 A 均衡区間の外
 均衡区間の外では、ミクロ的に均衡が達成されない。すると生産量は、過小であるか過大であるか、どちらかだ。次の二通りがある。
   ・ 生産量は過小 …… 倒産や失業の発生
   ・ 生産量は過大 …… 過剰な物価上昇
 前者は、当然だろう。(すでに何度も述べたとおり。)
 後者は説明を要する。ここでは物価上昇が起こる。なぜか? 消費が増えたとき、生産量が増えるが、名目値で増えるだけだからだ。実質値は、生産能力で制約されて、上限がある。結局、「名目値は増えるが、実質値は増えない」というふうになる。これはつまり、「過剰な物価上昇」という状況だ。
 
◇景気変動の種類   
 
 以上のことから、景気変動は(2×2の)4種類に区別されることになる。それぞれに名称を付ければ、次の4通りに分類される。
   ・ 景気後退 …… 生産量は減少。均衡区間の中。
   ・ 好況    …… 生産量は増大。均衡区間の中。
   ・ デフレ   …… 生産量は減少。均衡区間の外。
   ・ インフレ …… 生産量は増大。均衡区間の外。
 わかりやすく解説すれば、次のように言える。
 均衡区間の中という状況には、「景気後退」と「好況」の二通りがある。変動の方向は逆方向だが、どちらにおいても、ミクロ的に均衡が達成可能だ。この状況は、放置しても構わない。(経済学の出番なし。)
 均衡区間の外という状況には、「デフレ」と「インフレ」の二通りがある。変動の方向は逆方向だが、どちらにおいてもミクロ的に均衡が達成不可能だ。この状況は、悪い状況だ。当然、放置してはならないし、何らかの対処をするべきだ。(経済学の出番あり。)
 
◇景気対策の必要性   
 
 結局、景気対策が必要になる場合というのは、限られる。それは、均衡区間の外という状況だ。つまり、次のいずれかの状況だ。
   ・ デフレ   …… 生産量が過小
   ・ インフレ …… 生産量が過大
 こういう状況では、対策を取る必要がある。次のように。
   ・ 生産量が過小のとき …… 需要の拡大
   ・ 生産量が過大のとき …… 需要の縮小
 生産量が過小または過大になったときには、生産量を調節するために、需要の値を制御するわけだ。ここでは、「需要の値を調節する」ということに注目しよう。
 ではなぜ、「供給」でなく「需要」を調節するのか? 「供給」の側を調節しても仕方ないからだ。次のように。
   ・ 稼働率 …… 縮小した需要に応じて、稼働率を減らしても、現状のまま。
               (単に不況が続くだけだ。対策にならない。)
   ・ 供給力 …… 縮小した需要に応じて、供給力を減らせば、弊害がある。
               (供給力の崩壊。まともな対策でない。)
 そもそも根源的に考えてみよう。「稼働率」というものは、なるべく百%であるのが効率的だ。また、「供給力」というものは、減らすべきものではない。一方、需要というものはどうか? 需要は、消費心理の変動に応じて、やたらと気まぐれに変動するものだ。とすれば、気まぐれに変動した需要を、元に戻すことは、当然のことなのだ。そして、それによって、「生産量」を安定させることができる。
 景気変動をなくすというのは、そういうことだ。
( ※ ここでは、マクロ的な認識をしていることに注意しよう。経済学の目的は、「生産量を安定させること」だ。マネタリストはここを勘違いして、「物価を安定させること」だと思い込んでいるが。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   景気変動を見るときには、生産量に着目するべきだ。
   生産量が変動する原理は、マクロのモデルでスパイラルとして説明される。
   生産量の変動の良し悪しは、均衡区間の「中」と「外」とで区別される。
   生産量の減少・増加も含めれば、景気変動には4種類ある、とわかる。
   均衡区間の「外」となる景気変動には、景気対策が必要だ。
   生産量を安定させるには、需要(特に消費)を安定させればよい。
   ┗───────────────────────────────────
 
■W・2 景気対策   
 
 景気対策の仕方を示す。ここでようやく、「不況はどうやって解決できるか?」という問題に回答を示す。
 
◇基本   
 
 景気対策としては、どうすればいいか? 基本となることは、前節から判明している。すなわち、「生産量の安定」をめざすためには、「需要の安定」があればいい。特に、「消費の安定」があればいい。
 「政府投資」や「民間投資」は、特に変動させる必要はない。従来の経済学では、「消費が減ったなら、その分、政府投資や民間投資を増やせば、総需要は一定になる」と考えた。しかし、そのやり方だと、いろいろと問題が出る。つまり、弊害が出たり、無効になったりする。このことは、本書の前半で示したとおり。
 消費が変動したら、変動した消費を元に戻す。これが王道だ。(対症療法とは反対。)
 
◇原理   
 
 景気対策には、何をどうすればいいか? その基本的な原理は、モデルから結論できる。
 景気悪化の「きっかけ」は、「限界消費性向の低下」である。これによって、点Aから点Bに均衡点が移動し、そのせいで、生産量が変動していく。
 とすれば、「きっかけ」となったものを、元に戻せばよい。すなわち、「限界消費性向の低下」を元に戻して、「限界消費性向の上昇」を起こせばよい。
 具体的に言おう。先の例では、限界消費性向が 0.8 から 0.7 に低下した。そのあと今度は、限界消費性向を 0.7 から 0.8 へ上昇させればよい。すると均衡点は、点Aから点Bに移動したあとで、今度は点Bから点Aへ戻っていく。すると生産量は、いったん減ったあとで、今度は元の量にまで増えていく。
 以上が基本的な原理だ。
 
◇景気対策(短期)   
 
 前項の基本的な原理は、実際に成立するだろうか? 短期的には、まさしく成立する。
 まず、「限界消費性向の低下」があったとしよう。消費が減る。消費が減った分、貯蓄が増える。その後、「限界消費性向の上昇」があれば、たまった貯蓄を取り崩せば、需要が増える。それだけのことだ。
( ※ 「限界消費性向の上昇をもたらすには、どうするべきか?」という問題は、「いかにして国民の消費心理を刺激するか」という問題だ。この問題は、実務的な事柄である。これはこれで、別の話となる。)
 
◇景気対策(中期)   
 
 前項で述べたことは、短期的には成立する。ただし、中期的には成立しない。では、なぜ? それは、「所得」の変動が影響するからだ。
 短期的には、所得は一定である。この場合、「消費が減った分、貯蓄が増える」となる。あとで消費意欲が増せば、消費は増える。(貯蓄を取り崩せばよい。)
 中期的には、所得が減少する。この場合、「消費が減った分、貯蓄が増える」とならない。かわりに、「消費も減り、貯蓄も減る」というふうになる。あとで消費意欲が上がっても、消費は増えない。(貯蓄を取り崩そうにも、貯蓄がない。)
( ※ この事実は、統計的にも判明している。不況の初期にあたる一九九二年ごろには、平均消費性向が急速に低下している。一方、不況が続いたあとの二〇〇〇年ごろには、平均消費性向は1を上回るほどにも高まっている。平均消費性向が1を上回るというのは、一見、「消費が増えている」ということを意味するように思えるが、実は、「所得が減っている」ということを意味するのだ。所得が減ったとき、生活水準を維持するために、やむなく貯蓄を取り崩す。かくて平均消費性向が高くなる。……このことは、「低所得者ほどエンゲル係数が高い」という現象に似ている。どちらの場合でも、必需品にはどうしても支出をせざるを得ないので、そのせいで、消費の比率が高まる。)
 
 [ 補足 ]
 スパイラルの初期には平均消費性向が低下し、スパイラルが進んだあとでは平均消費性向が上昇する。──このことを、モデル的に説明しよう。
 スパイラルの初期には、限界消費性向gが低下するだけだ。この時点では、限界消費性向が低下する分、平均消費性向も低下する。(所得は不変。)
 スパイラルが進むと、gとhは変化しないが、所得Yが低下する。すると第2式において、gとYの積が小さくなる。そのせいで相対的に、hの占める割合が大きくなる。hの寄与が大きくなる形で、平均消費性向はどんどん高まる。
 極端な場合では、所得がゼロに近くなるが、一定のhは残る。となると、平均消費性向は、無限大に近くなる。この値は1を大幅に上回る。
 
◇国による貸し付け   
 
 前項で述べたように、スパイラルが進むと、平均消費性向は上昇する。
 したがって、不況が続いたあとでは、たとえ心理的な景気対策を取っても、無効となる。政府が「消費を増やせ」という政策を推進しても、国民はなかなか消費を増やさない。なぜなら、消費を増やしたくても、増やせないからだ。財布がカラであるときには、「ない袖は振れない」のだ。
 では、不況のときには、なすすべはないのだろうか? 手も足も出ないのだろうか?
 放置する限りは、どうにもならない。しかし、放置するかわりに、何らかのことをすれば、不況を解決することはできる。その方法を教えるのが、経済学の役割だ。
 では、どうするべきか? それは前項から、明らかになる。不況から脱せないのは、消費する意欲がないからではなくて、手元に金がないからだ。ここを解決すればよい。
 では、国民の手元の金を増やすには、どうすればいいか? いくつかの策がある。
 一つは、「天からお金が降ってくる」のを信じることだ。しかし、いくら空を見上げても、お金が降ってくることはない。
 もう一つは、国民が銀行などから、お金を借りることだ。しかし、そのための政策を取ろうにも、もともと金利はゼロだから、これ以上はどうしようもない。
 となると、残る方法はただ一つ。政府が国民に、強制的に金を貸し付けることだ。では、どうやって? 具体的な方法は、次項で示す。
 
◇中和政策   
 
 本書では、景気対策として、次のことを提唱する。
 「現在の減税、将来の増税」
 これを「中和政策」と呼ぼう。その意味は、「減税と増税がそれぞれプラスとマイナスで中和する」ということだ。
 中和政策では、国は国民に対して、いったん金を与えてから、あとになって金を奪う。これは、「国が国民に金を貸す」というのと同義である。
 ではなぜ、そんなことをするのか? その理由は、前項で述べたとおりだ。景気回復が目的となるが、国民の手元に金がない。そこで国が金を貸し付けて、国民の手元に金を渡す。すると、「財布がカラなので、消費を増やせない」という問題が解決する。かくて、景気回復が可能となる。
 
◇中和政策の意義   
 
 中和政策の核心は、「国による貸し付け」である。これについては、疑問が生じるかもしれない。「減税と増税を両方ともやるのでは、差し引きして、相殺されるのでは?」と。なるほど、両者は相殺されるように見える。しかし、たとえ相殺されるとしても、無効ではないのだ。なぜなら、実施する時期に違いがあるからだ。
 「減税」と「増税」を同じ時点で実施するのであれば、両者は相殺されて無効になる。しかし、「現在の減税、将来の増税」というふうに時期をずらせば、無効にはならない。なぜか? 生産量の変動が起こるからだ。
 ここでは、マクロ的な視点を取るべきだ。「減税」と「増税」の時期をずらせば、その間の期間に、生産量を増やすことができる。たとえば、GDPが五〇〇兆円あたりで低迷していたときに、減税によって景気刺激をして、GDPを五三〇兆円あたりにする。そうなってから、「増税」をして、景気の過熱を止めて、五三〇兆円あたりで安定軌道に乗せる。こうして、五〇〇兆円あたりから五三〇兆円あたりへと、生産量を変化させる。(これはモデル的には、「点Aから点Bへと均衡点を移動させる」ということに相当する。)
 そして、その後、生産量が十分に増えたあとで、「増税」をすれば、上向きのスパイラルは停止する。しかしその時点ではすでに、生産量が十分に増えている。
 結局、「中和政策」では、減税と増税の時期の違いゆえに、「生産量を変動させる(増加させる)」という効果が生じる。それゆえ、景気回復という目的が達成されるのだ。
( ※ 減税の効果についての細かな話は、次節で示す。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   景気回復とは、生産量を増やすことだ。それには、消費を増やせばいい。
   しかし、消費心理だけが高まっても、所得の不足が足カセとなる。
   そこで、所得の不足を解決するために、国が国民に金を貸せばよい。
   その政策が「中和政策」だ。すなわち「現在の減税、将来の増税」だ。
   ┗───────────────────────────────────
 
■W・3 評価と補注   
 
 景気対策としての「中和政策」について、評価と補注を示そう。
 
◇基本   
 
 「中和政策」とは、「現在の減税、将来の増税」である。これについて、本節で評価する。ただし評価する前に、基本的なことを解説しておこう。
 
 @ 税率の可変化
 中和政策は、「減税と増税」の双方をなす。ここでは、景気調整の方法として、「税率の可変化」という方法を取る。一方、従来の政策では、景気調整の方法として、次の方法を取る。
   ・ 金融政策では …… 金利の可変化
   ・ 財政政策では …… 政府支出の可変化
 中和政策の「税率の可変化」という方法は、そのどちらとも異なる。
 
 A 消費の変動
 中和政策では、「消費」を変動させる。一方、従来の政策では、別のものを変動させる。
   ・ 金融政策は …… 「民間投資」を変動させる
   ・ 財政政策は …… 「政府投資」を変動させる
 中和政策の「消費」を変動させるという方法は、そのどちらとも異なるものだ。
 なお、修正ケインズモデルで言えば、中和政策は、消費(C)を変動させ、金融政策・財政政策は、投資(I)を変動させる。
 
◇加速度原理   
 
 中和政策と金融政策の本質的な違いを示すことにしよう。そのためには、「加速度原理」という概念を用いるといい。
 「金融政策」の意義は、何か? 金融市場で、資金の「供給」を変動させることだ。モデル的に言えば、需給曲線のモデルで、供給曲線を変動させることによって、均衡点の量を調整する。均衡点の量(資金の量)が、投資の量に相当する。結局、金融市場で「資金の供給」を変動させることで、投資の量を変動させる。
 しかしながら、この発想には、「資金の需要」が欠落している。
 金融市場における「資金の需要」は、景気変動にともなって変動する。(需給曲線のモデルで言えば、需要曲線が変動する。)しかるに、マネタリズムの発想では、「資金の需要は一定である」というふうに、勝手に仮定されている。その勝手な仮定の上で、「資金の供給だけを変動させよう」と考える。
 
こういうふうに需要の変動を無視するのは、古典派特有の発想だ。いわば、片目を閉じている発想である。
 では、片目を閉じるのをやめると、どうなるか? 両目を開けば、大切なことがわかる。「資金の供給」の変動のほか、「資金の需要」の変動もある、と。そして、「資金の需要」の変動を考慮する概念を、「加速度原理」と呼ぶ。
 加速度原理とは、次のことを意味する。(なお、投資と需要は等価。)
 「消費が変動すると、投資はその何倍も変動する」
 例を示そう。自動車の需要が、毎年百万台だったとしよう。投資の額は、毎年千億円だったとしよう。(設備劣化を更新するための投資。)さて。あるとき急に、自動車の需要が10%増になったとしよう。すると投資の額は、10%増(千百億円)になるか? いや、その何倍も増える。たとえば、50%増(千五百億円)ぐらいだ。なぜか? 設備劣化を更新する分の投資に加えて、急に増えた十万台分をまかなうための新規投資が加わるからだ。
 こういうふうに、消費の変動に比べて、投資の変動は、何倍にもなる。この例では、比率は1対5である。
 逆方向の変動もある。不況のときには、消費が7%ぐらい減ると、企業は投資を7%減らすどころか、その何倍も減らす。なぜか? 稼働率が低下している状況では、新規投資の必要はない。また、収益は赤字なのだから、必要な投資をする余裕すらもない。場合によっては、投資は一挙にゼロになる。(つまり百%減。)
 
 結局、「資金の需要」は変動する。だから、「資金の需要」を一定だと仮定した上で、「資金の供給」だけを変動させても、投資の量をうまく調整できないのだ。
( ※ 実はこのことが、「流動性の罠」の本質である。「流動性の罠」とは、いくら「資金の供給」を増やしても、無効になることだ。その理由は、「資金の需要」が大幅に減っていることだ。この本質を理解しよう。)
( ※ 金融政策が無効になった状況では、残るのは財政政策と税政策だけだ。)
 
◇批判   
 
 「減税」という景気刺激の方法は、昔から知られてきた。ただし、この方法については、いろいろと批判が加えられている。これらの批判を、逆に批判する形で、減税について解説しておこう。誤解を正すわけだ。
 
 @ マネタリズムの減税批判
 マネタリズムの立場から、こういう批判がある。
 「減税よりも金融政策の方が、優れている。理由は三つ。第1に、減税はコストがかかるが、金融政策はコストがかからない。第2に、減税は立法の手間がかかるが、金融政策は立法の手間がからない。第3に、減税は実施までに時間がかかるが、金融政策は実施までに時間がかからない。」
 これについて、順に説明しよう。
 第1に、コストについては? 「減税のあとで増税」とすれば、減税でもコストはかからない。(前に説明したとおり。)
 第2に、立法の手間は? これは、為政者の手間の問題であり、経済的な問題とは関係ない。どんなに手間がかかろうと、なすべきことはなすべきだ。「手間がかかるのは駄目だ」というのは、為政者のサボりの口実でしかない。
 第3に、時間の点では、その通り。たしかに「減税」には、数カ月の時間がかかって、スピーディではない。ならば、「超短期的には金利の調整をして、その後、かなりの時間がたってから、税率の調整をする」というふうにすればよい。それだけのことだ。
( ※ なお、金融政策には、効果の点で致命的な欠陥がある。前項の「加速度原理」で示した通り。)
 
 A 古典派の減税批判(合理的期待形成仮説)
 古典派の立場から、こういう批判がある。
 「中和政策は無効である。現在の減税があっても、将来の増税を見越して、国民は金を使わないでいる(貯蓄する)からだ。なぜかというと、合理的な国民は、毎年均等に支出をするからだ。現在では支出を増やして、将来では支出を減らす、というようなことはしない。それは非合理的だ。」
 この主張を、「合理的期待形成仮説」と呼ぶ。この主張は、正しいのだろうか?
 現実と照合すれば、「正しくない」とわかる。経済統計を見ると、「減税をすればGDPは増え、増税をすればGDPは減る」ということが、実証されているからだ。
 結局、この説は完全に間違っている。では、どこがどう間違っているのか? それを考えてみよう。
 一部の古典派は、「国民が合理的でないからだ」と主張する。しかし、本当は、そうではない。国民がいい加減であるからではなくて、古典派がいい加減であるからだ。すなわち、こう説明できる。
 「古典派には、マクロ的な認識がない。生産量や所得の変動を、考慮していない」
 古典派の主張は、「生産量は一定である」「所得は一定である」ということを前提としている。その前提が正しければ、古典派の主張は正しい。しかし、この前提が間違っているのだから、古典派の主張は正しくないのだ。
 不況期には、所得は少ない。所得が少ないときには、減税の金を使った方がいい。また、増税をする時点では、景気が回復しているので、所得は多い。所得が多いときには、所得の一部を使わずに借金返済した方がいい。──こうすれば、支出額をほぼ一定にすることができる。これが合理的な行動だ。
 生産量や所得の変動を無視するということ。マクロ的な視点が欠落しているということ。物事をミクロ的な視点だけで認識するということ。──ここに、古典派の根本的な難点がある。
 
 B 国民感情からの減税批判
 国民感情の立場から、こういう批判がある。(古典派の批判に似ているが。)
 「減税で金を得ても、増税で金を奪われるのなら、差し引きして、金はちっとも増えないな。だったら全然嬉しくない」
 この判断は正しくない。差し引きすれば、「損得はない」と言えるが、「金は増えない」とは言えないのだ。なぜか? 生産量が増えるせいで、金は増えるからだ。
 景気の回復にともなって、生産量が増えて、所得が増える。ならば、増税で金を奪われたとしても、金は減るどころか増える。具体的には、次のようになる。
 「所得が百万円増えて、増税が三十万円」
 この場合、増税で三十万円を奪われても、手取りの金は七十万円増える。結果的に、金は増えるのだ。
 増税があったときには、金は減るどころか増える。このことは不思議に思えるかもしれない。しかし別に、不思議ではない。本質的に言おう。増税で奪われるのは、「金」でなく「労働」なのだ。増税によって、「金」を奪われるのでなく、「労働」を奪われる。
 ここでは、「働いても金を得ない」というふうになっている。では、なぜ? 当然だ。減税のときには、「働かないのに金を得る」というふうになっていたからだ。
 減税と増税を、ひっくるめて考えよう。普通の勤務なら、「働いたあとで、金を得る」というふうになる。一方、中和政策では、「金を得たあとで、働く」というふうになる。つまり国民は、不労所得を得たあとで、タダ働きすることになる。(差し引きすれば、損得なし。)
 ではなぜ、そんなことをなすべきなのか? なぜ、普通の勤務とは逆の中和政策を行なうべきなのか? それは、「循環構造」を正常化するためだ。──そもそも不況のときには、
   「働かない ←→  金を得ない」
 という循環構造が成立している。この循環構造を脱して、
   「働く   ←→  金を得る」
 という循環構造に移りたい。そのためには、放置するだけでは駄目であり、循環構造を移るための政策が必要だ。その政策が、「国が国民に金を貸す」という政策だ。ここに、中和政策の本質がある。
 
 C ケインズ派の減税批判
 ケインズ派の立場から、こういう批判がある。
 「同じ金額を使うのならば、減税よりは公共事業の方が効率的だ。乗数理論のモデルで計算すると、そのことが判明する」
 この主張は、経済学者の陥りやすい穴にはまっている。モデルで計算するが、モデルの意味を理解しないのだ。(本質を見失っている、といってもいい。)
 乗数理論のモデルで計算すると、たしかに、ケインズ派の主張の通りになる。たとえば1兆円の規模で、減税または公共事業をしたとしよう。すると、「減税よりも公共事業の方が、GDPを増加させる効果が3割ほど多い」という結論が、モデルから得られる。ここまではいい。
 ではなぜ、両者の違いが生じるのか? 減税の場合には、金の一部が貯蓄されたので、その分、需要を拡大する効果が減るからだ。では、その意味は? 金が眠るということだ。GDP拡大の効果が出ないというのは、金が無駄になるということではなくて、金が眠るということだ。
 とすれば、対策は簡単だ。金が眠る分を見越して、減税の規模を3割ほど大きくすればよい。それだけのことだ。
( ※ ケインズ派は、「効率的か否か」を論じる。しかし実は、「効率」などは何の意味もないのだ。眠る金の量が増えようと減ろうと、どちらでもいいからだ。どうでもいいことを論じたあげく、見当違いの結論を出すのが、ケインズ派だ。)
( ※ ケインズ派の主張を、比喩的に示そう。──政府がこう唱える。「国民のみなさん。みなさんが手持ちの金をもっていることは、非効率的です。なぜなら、みなさんは金の7割しか使わないからです。ゆえに、経済的に効率を高めるために、みなさんの金を政府が勝手に全部使ってあげます。穴を掘って埋めたり、ピラミッドを建設したり、自然環境を破壊したり、そういうふうにみなさんの金を全部使ってあげます。こうすれば経済的に最も効率的なのです」……これは、泥棒の論理だ。かくて、政府による泥棒を正当化するのが、ケインズ派である。)
( ※ しかもこの泥棒は、かなり巧妙である。まずは不況のさなかに、「財政赤字」という形で借金を増やすだけだ。その後、景気が回復したあとで、「増税」という形で借金を取り立てる。このとき、「減税なしの増税だけ」という形で、国民は金を一方的に奪われる。……しかし、不況のさなかにあっては、借金がふくらむだけであって、借金の取り立てはない。その間、国民は、金を奪われても、気づきにくい。泥棒をされても、借用証が増えるだけで、気づきにくい。これはかなり巧妙な泥棒だ。だまされないように、注意しよう。)
( ※ 身近な例でたとえよう。夫と妻がいる。夫の誕生日に、妻が百万円もするブランド品の時計をプレゼントしてくれた。夫は喜びながら、こわごわ質問した。「お金はどうしたの? そんな金は、わが家にないはずだけど」と。妻は「大丈夫。あなたのお金は使っていないわ」と答えた。夫が「じゃ、どうしたの? きみが稼いだお金?」と尋ねると、妻は「違うわ」と答えながら、「あなたの名義で、サラ金から借金しただけよ。でも、貯金が減ったわけじゃないから、大丈夫。あなたがお金の使い方を知らないから、あたしがうまく使ってあげたのよ」と大得意。……かくて、夫の手元には、百万円の時計と、百万円の借金が残る。夫は悲嘆した。しかし妻は、お気楽だ。「借金の返済は五年後だから、今は忘れていればいいのよ」と。)
 
 D 財政再建論者の減税批判
 財政再建主義の立場から、こういう批判がある。
 「財政赤字は、もともと巨額だ。なのに減税をすれば、財政赤字がさらにふくらむ。それはまずい。ゆえに、減税をするべきではない。むしろ、借金はさっさと返済するべきだ。そのために、減税よりも増税をするべきだ」
 これは、「借金を減らそう」という主張だ。しかしこれは、一種のモラルであるにすぎない。とうてい経済学ではない。──では、経済学的にはどうか? 次のように言える。
 「不況のさなかでは、歳入増加や歳出削減は、好ましくない。なぜなら、景気を悪化させるからだ。むしろ当面は、減税という形で、借金を増やしていい。その後、生産量が拡大したあとで、借金を返済すればよい」
 逆説ふうであるが、実際、借金を返済するためには、借金を増やせばいいのだ。つまり、「急がば回れ」ということだ。経済学を理解しない素人には、この逆説的な論理がわからないのだろう。しかし経済学を理解すれば、この逆説的な論理がわかる。
 比喩的に言おう。病人がいる。病気がようやく治りかけて、病み上がりの状態となった。しかし、この時点では、まだ借金返済をするべきではない。病み上がりの状態で、無理に働いて借金を返済すれば、健康の回復が遅れるので、かえって借金の完済が遅れてしまう。だから当面、働かずに、健康の回復に努めるべきだ。その後、健康をすっかり回復したあとで、いっぱい働いて、いっぱい借金返済をすればよい。そうすれば完済は早まる。これが賢者の方法だ。
 
◇検証   
 
 中和政策について、正しいかどうかを検証してみたい。とはいえ、経済は試験管で実験するような具合には行かない。ならば、過去の歴史を見るといいだろう。
 過去の歴史を見ると、「実施した場合の成功例」もあり、「逆を実施した場合の失敗例」もある。それぞれ、@Aで示す。
 
 @ 実施した場合の成功例
 中和政策を実施した場合の成功例がある。
 第1に、「減税による不況脱出」だ。これの成功例は、いくらでもある。近いところでは、「二〇〇二年以降のブッシュ減税」だ。ブッシュ減税は、「金持ち減税」という難点はあったが、それでもともかく、「減税による景気回復」という効果はあった。(「減税」なしに他のことばかりをやって不況を悪化させた日本とは、対照的だ。)
 第2に、「増税によるインフレ抑制」だ。これの成功例は、あまり多くない。それでも近いところでは、「一九九〇年代のクリントン増税」がある。ここでは、増税のおかげで、高金利にせずに済んだので、低金利のもとで投資が拡大した。物価上昇を抑制しながら、経済を安定的に成長させた。同時に、財政赤字を激減させた。これは、見事な成功例だった。(仮にマネタリズムの「高金利」という政策を取っていたら、供給不足による物価上昇と、職場不足による失業とが、同時に発生していただろう。)
 
 A 逆を実施した場合の失敗例
 「中和政策」の逆を実施した場合の失敗例がある。
 第1に、「増税による不況悪化」だ。不況脱出期に増税をすると、回復しかけた景気が悪化する。古いところでは、世界恐慌期の「財政緊縮」がある。近いところでは、「一九九七年の橋本増税」がある。このいずれの場合でも、景気はひどく悪化した。
 第2に、「減税によるインフレ過熱」だ。好況期に、増税するどころか減税をすると、状況が悪化する。典型的なのは、いわゆる「放漫財政」である。この場合には、悪性のインフレが起こる。途上国でしばしば見られる。
 
 こうして@Aからわかるように、「中和政策は正しい」と言える。そのことが歴史的に判明するわけだ。
 
◇景気循環   
 
 「景気循環」という概念についても説明しておこう。景気循環という概念は、次の発想を取る。
 「景気は周期的に変動する。波のような形で」
 この発想に従えば、次のことが結論される。
 「景気は、上がったり下がったりする。上がったあとでは下がるし、下がったあとでは上がる。ゆえに、放置すれば、不況も好況も、自然に解決する」
 これは正しくない。「上がったあとでは下がる」ということは成立するが、「下がったあとでは上がる」とは言えないのだ。次の@Aで説明しよう。(順序は逆になるが。)
 
 @ 下がったあとでは上がる
 これは成立しない。不況期には、下がったままである。つまり、不況がずっと続く。少なくとも、中期的にはそうだ。
 なぜか? その理由は、先に示したとおりだ。消費意欲が上がっても、所得が減っている。だから、生産量が増えないのだ。
 
 A 上がったあとでは下がる
 これは成立する。
 まず、「限度なしに上がる」ということはありえない。「頭打ち」は不可避だ。
 また、「過剰に上がったあとで反転する」ということもある。これは「過剰消費のあとでは過少消費になる」ということだ。借金の返済を迫られるのと、同じことだ。例としては、バブル破裂がある。バブル期には、資産価格が上昇した。資産価格が上昇しても、国民の富は増えていないのだが、「富が増えた」と錯覚したあげく、過剰消費した。そのあとで、「富は増えていない」という事実に気づいた。すると、過剰消費のツケ払いの形で、過少消費を迫られた。
 
 [ 補足 ]
 資産価格の上昇は、富の増大を意味しない。「富の増大がある」と見えるのは、ただの錯覚にすぎない。このことに注意しよう。
 たとえば、土地の価格が2億円から3億円に上がったとしよう。そのことで、富は1億円増えるか? たしかに、売り手は1億円の利益を得る。しかし、ちょうど同額の1億円、買い手は損をする。とすれば、国民全体では、富は増えないのだ。
 なお、資産価格の上昇のせいで、国全体の富が増えることがあるとすれば、それは国内の資産を外国に売り払った場合だ。日本中の土地をどんどん外国に高値で売り払えば、国民全体としては利益を得る。──しかしながら、実際に起こったのは、それとは逆のことだった。日本の土地を外国に高値で売ったのではなく、外国の土地を高値で買うばかりだった。あげく、高値づかみしたものを、安値で手放した。こうして日本全体では、富を得るどころか、富を失ったのだ。
 資産価格の上昇は、富の増大をもたらさない。土地の価格がどんなに上昇しても、富としての自動車や電器製品は増えることはない。バブル期に電器製品が増えたのは、土地の価格が上昇したからではなく、人々が労働時間を増やして生産量を増やしたからである。……ただし、古典派経済学者は、生産量を無視する。そこで、帳簿の数字だけを見ながら、「日本の富は千兆円も増えたぞ」と錯覚するのである。そのあとでまた、帳簿の数字をふたたび見て、「日本の富は千兆円も減ってしまった」と錯覚するのである。
( ※ 古典派はどうして、こんなひどい錯覚をするのか? 個々の価格の総和を、全体価格と見なすからだ。投機というものをよく理解していないからだ。投機が過熱したときには、市場価格だけが異常に上昇する。しかし、株価が急上昇したとき、「資産が増えた」と思った人が、手持ちの大量の株を売却すれば、株価が暴落するから、本当は資産は増えていないのだ。しかるに古典派は、そのことに気づかない。古典派の頭には、「市場価格」という概念があるだけで、「全体量」という概念がないのだ。)
 
◇景気循環と景気変動   
 
 「景気循環」という概念は成立しない。では、「景気変動」とは何のことなのか? この問題については、次のように説明できる。
 「景気変動とは、最初の突発的な事件と、そのあとの収束の過程である」
 たとえば、「消費の低下」が突発的に発生して、そのあとでスパイラルの過程で生産量が減少していく。
 経済システムの外部において、何らかの事件が突発的に生じると、その事件が、経済システムの内部において影響する。その影響は、スパイラルが進むにつれて収束する。だから、事件の影響の量は、「減衰曲線」のような形を取る。
 経済システムの外部から内部へと、次々と事件が侵入して、そのたびに、上向きまたは下向きのスパイラルが発生する。それらのスパイラルはいずれもしだいに収束していく。減衰曲線の形で。
 さまざまな減衰曲線を合成すると、ちょっと不規則的な変動だと見える。それはちょうど、株価の変動にそっくりだ。ギザギザを描きながら、小さな周期や大きな周期で、小幅または大幅に、上がったり下がったりする。──そして、景気変動というのも、基本的には、株の変動と同様なのだ。それは決して、波のように周期的な変動ではない。
 経済学で扱えるのは、経済システムの内部における過程だけだ。その過程は、「スパイラル」として示せる。一方、外部世界における突発的な事件の発生は、経済学では扱えないものだ。「いつどこでどんな戦争が起こるか」とか、「次のアメリカ大統領は誰か」とか、そういうことは、経済システムの外の現象であるから、経済学では扱えないのだ。
 景気変動は、経済的な現象だ。しかしそこには、経済学で扱える部分もあり、経済学で扱えない部分もある。このことを理解しよう。「経済学をよく理解すれば、未来の経済現象をうまく予測できる」ということは、ありえないのだ。

 
●第X章 補説   
 
 最後に、補足的な解説を加えておく。経済理論の話ではなく、より根源的な発想の話だ。
 
◇思想の基盤   
 
 経済学の話はすでに語り終えた。すなわち、不況をめぐる謎や混乱について、「悪魔の見えざる手」という用語をキーワードとしながら、長々と説明してきた。「謎の提示」と「謎の解決」は、こうしてなされた。
 さて。本書を閉じる前に、もっと広い視点から、経済学全体を見渡してみよう。ここでは、経済学そのものを見るのでなく、その思想の基盤を見ることにしたい。いわば、舞台裏を覗くように。
 
 経済学の歴史とは、どんな歴史だったか? それは、真実を求めながら虚偽をつかんできた、という歴史だった。あるいは、虚偽を「真実」だと思い込んできた歴史だった。──では、なぜ、そういう道をたどってきたのか? 
 すぐに思い浮かぶのは、「経済学が非科学的であったからだ」という説明だ。経済学は、錬金術や天動説のように、非科学的であったのかもしれない。そういう疑いが浮かぶ。
 しかし、そうではない。経済学は、非科学的ではなかった。むしろ逆に、科学的でありすぎたのだ。科学的でありすぎたから、経済学は誤ったのだ。──これは逆説的な言い方だ。そこで、わかりやすく言い換えよう。経済学は、科学的にふるまってはならない分野で、必要以上に科学的であろうとした。社会科学という分野で、自然科学の方法を取ってしまった。それこそ勘違いだったのだ。
 
 自然科学の方法とは、何か? 前節(前項)の最後の話を思い出そう。そこでは次のことを否定した。
 「経済学をよく理解すれば、未来の経済現象を予測できる」
 こういうことは、ありえないのだ。しかるに自然科学の立場では、次のように主張されることが多い。
 「自然科学をよく理解すれば、未来の自然現象を予測できる」
 物理学であれ、天文学であれ、化学であれ、自然科学の分野では、「その学問をよく理解すれば、未来の自然現象を予測できる」と信じられている。では、その根拠は? 自然科学の方法だ。すなわち、次のことだ。
 「数式によって法則を示すこと」
 これが自然科学の方法だ。自然科学は、この方法を取って、ずっと成功してきた。万有引力の法則であれ、電磁気学の法則であれ、熱力学の法則であれ、「数式によって法則を示すこと」によって成功した。それは、真実を解明することであり、未来の現象を予測することだった。なぜなら、真実たる法則があれば、未来の現象は予測可能になるからだ。
 では、経済学は? 経済学も、同じ方法を取れるのか? すなわち、「数式によって法則を示す」という方法を?
 
 この質問に、多くの経済学者は、暗黙裏に「イエス」と答えた。「科学的であるということは、自然科学的であるということだ」と判断しながら、「だから経済学も、自然科学の方法を取るべきだ。すなわち、経済現象を示す法則を示すべきだ」と。そしてその法則を具体的に探ろうとした。
 そのすえに、どうなったか? 結果的に、どんな法則も見出すことはできなかった。たとえ何らかの法則を見出しても、それは現実に合致しなかった。かくて、混迷に陥った。
 ではなぜ、法則をうまく見出せないのか? われわれの知識が不足しているからか? この世には法則が存在するのに、われわれの知識が不足しているせいで、隠れた法則をうまく見出せないのだろうか? 
 そうではない。「法則がある」という前提そのものが根源的に間違っているのだ。経済学者の望むような法則など、もともと存在していないのだ。(数学で言えば、「解が存在しない」ことに相当する。)
 経済学者は、「経済現象を示す法則がある」と信じながら、法則を見出そうとしてきた。なるほど、法則が存在するなら、それでいい。しかし、法則が存在しないときに、法則が存在すると思い込んだら、どうなるか? 自然科学の方針によって数学的に記述しても、そのことで、真実に到達するどころか、逆に、真実から遠ざかってしまうのだ。──それが、今までの経済学のたどってきた歴史だったのだ。
 
 この問題を数学的にとらえ直そう。(数学的な概念を用いる。あらかじめ「関数」という数学概念を理解しておいてほしい。)
 経済学者は、次のことを想定する。
 「経済現象を示す法則が存在する」
 さて。「法則が存在する」とは、どういうことか? それは、「関数が存在する」ということだ。なぜなら法則は、関数の形で記述されるからだ。かくて、すぐ前の想定は、こう言い換えていい。
 「経済現象を示す関数が存在する」
 では、「関数関係が存在する」とは、どういうことか? 数学的に言えば、「一意性」が成立することだ。すなわち、「変数が同じ値であれば、関数の値も同じである」ということだ。
 この「一意性」こそ、重要だ。「一意性」が成立すれば、関数が存在する。そして関数が存在すれば、関数によって経済現象を示すモデルを作れる。こうして、経済学者の想定するとおりになるはずだった。
 では、現実には? 実を言うと、現実の経済現象には、「一意性」は成立しないのだ。
 
 現実の経済現象においては、「一意性」は成立しない。このことを、わかりやすく説明しよう。
 今、何らかの経済モデルがあるとする。この経済モデルでは、「生産量」が関数となり、「貨幣量」や「労働者数」や「生産性」などが変数となる。変数は x、y、z のように示され、関数は f (x, y, z) のように示される。そして、変数と関数の間に、関数関係が成立する。次の図式のように。
          x, y, z    →      f (x, y, z)
 ここでは、関数関係がある。つまり、変数から生産量が決まる。この決まり方は、一意的である。
 さて。「一意的である」ということから、「可逆的である」ということが結論される。たとえば、ある変数が50から40に減ってから、40から50に戻ると、関数としての生産量も、いったん減ってから、元の値に戻るはずだ。つまり、生産量の変化は、可逆的であるはずだ。(変化の前でも後でも、変数は50という同じ値なのだから、関数の値は f (50) という同じ値になる。それが一意性の意味。)
 では、本当にそうなるか?   この件については、先に説明した。(「縮小均衡の是非」の項のCで。)すなわち、次のようになる。
   ・ 回復可能    …… 生産量の減少が「稼働率の低下」による場合
   ・ 回復不可能   …… 生産量の減少が「生産能力の低下」による場合
 前者の場合には「可逆的」だが、後者の場合には「不可逆的」だ。なぜか? 前者の場合には、稼働率が変動するだけだから、「稼働率を低下させてから上昇させれば、生産量は元に戻る」となる。後者の場合には、生産能力が変動するのだから、「生産能力を低下させてから上昇させようとしても、生産能力は容易には上昇しないゆえに、生産量は元に戻らない」となる。(覆水盆に返らず。いったんトンカチで壊した機械は、トンカチを逆にしても直らない。)
 後者の場合には、変化の前と後を比べると、変数が50という同じ値でも、生産量の値は同じにならないのだ。つまり、関数の値は一意的にならないのだ。──とすれば、生産量の値を関数の形で f (50) というふうに記述することはできない。ここでは、関数は存在しないのだ。
 
 不可逆的な現象には、関数は存在しない。それゆえ、経済現象については、「法則で記述する」という自然科学の方法を取ることはできない。
 経済学者は、経済現象について、自然科学の方法を適用しようとしてきた。そのとき、「法則が成立する」と信じて、「一意性」を暗黙裏に前提にしていた。しかし、その前提の基礎となる「可逆性」は、経済学の分野では必ずしも成立しないのだ。なのに、成立しない前提を勝手に成立すると思い込んで、理論をどんどん構築していった。あれこれと複雑な数式を使いながら。……かくて、あまりにも科学的であろうとしたことのせいで、かえって真実から遠ざかってしまったのだ。
    要旨
   ┏───────────────────────────────────
   これまでの経済学は、自然科学の方法を用いようとしてきた。
   それは、「法則」ないし「関数」で現象を示すという方法だ。
   しかし経済現象には、「一意性」や「可逆性」が成立しない。
   自然科学の方法を経済学に適用しようとすると、かえって間違う。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇改良主義   
 
 経済学には、自然科学の方法をそのまま適用することはできない。──そのことは、実は経済学者も、昔からうっすらと気づいていた。何しろ、どんな数式を用いても、現実の経済現象をうまく記述できないからだ。「若干の誤差がある」という程度では済まず、まるきりハズレっぱなしだからだ。
 そこで、新たな立場が現れた。「自然科学の方法」という枠組みを取りながらも、その枠組みのなかで何とか説明しようとする立場が。この立場を「改良主義」と呼ぼう。
 改良主義には二つある。この二つを順に説明しよう。
 
 第1の改良主義は、「不可逆性を取り込む」という立場だ。この立場は、次のように主張する。
 「現実が不可逆的であるなら、関数も不可逆性を組み込んだ関数にすればよい。具体的には、変数に時間を取り込めばよい。そうすれば時間的に、『行き』と『帰り』とを区別できる。こうして変数に時間を取り込んだ関数を使うことによって、現象を関数として記述できる」
 この方法がうまく成功することもある。たとえば、エントロピーの法則だ。気体分子が拡散していく過程(不可逆的な過程)を、変数に時間を取り込んだ法則で、うまく記述できる。
 しかしこの方法には、別の問題が生じる。それは、「関数が時間によって決まってしまう」ということだ。気体分子が時間的にどんどん拡散していくことが法則化されるのと同じように、経済現象が時間的に一方向に変化していくことが法則化される。これでは。あまりにも法則が強すぎる。経済現象はたしかに時間的に変化していくが、「時間だけで方向性が決まる」というようなものではないからだ。経済現象は、時間のなかで、プラス方向にもマイナス方向にも動く。それが景気循環ないし景気変動という現象である。とすれば、どちら向きにも変動するという現象を原理的に説明するためには、時間という要素を取り込むだけではまったく不足する。
 経済モデルに「時間」という変数を取り込むことは、完全な間違いというわけではない。しかし、その方法は、核心をとらえてはいないのだ。なぜなら経済現象は、時間だけで決まるような現象ではないからだ。経済を動かす根本原理には、「時間」という変数とはまったく別の力が作用している。その力を見抜くことこそ、真実を知るということだ。
( ※ この力を見抜かずに、単に時間を変数とするモデルを作っても、ただの時系列の年表のようなものができるだけだ。非本質的。)
 
 第2の改良主義は、「道具としての数学を拡張する」という立場だ。これは、次のように主張する。
 「通常の数学でうまく行かないのなら、道具として特別な数学を使えばよい。具体的に言えば、『カオス理論』や『フラクタル理論』のような数学(複雑系の科学)を使えばよい。そうすれば、通常の数学の限界を越えて、新たな記述ができるだろう。」
 この方法がうまく成功することもある。たとえば、葉の複雑な運動とか、海岸線の複雑な曲線とか、そういう複雑に見える数値的な変化を、「複雑系の科学」を用いることで、簡単な数式に還元することもできる。特に、「不可逆性」のある複雑さを、特別な数式でうまく近似することもできる。これはこれで、一つの方法である。
 ではそれで、経済現象の核心を示せるのか? つまり「複雑系の科学」は、「不可逆性」の本質をとらえているのか? ──これに答えるために、具体的な例に当てはめてみよう。「不可逆性」の典型的な例として、「生と死」がある。つまり、「死んだら、生き返らない」という不可逆性だ。生物については、「生 → 死」という順は成立するが、「生 ← 死」という順は成立しない。そういう不可逆性がある。これは、典型的な不可逆性だ。──では、この不可逆性は、カオス理論やフラクタル理論によって、うまく説明されるだろうか? 否。そもそも、生と死の不可逆性は、特別な数学を必要とするような、複雑な現象ではない。生と死の不可逆性は、幼い子供ですらわかるような、単純なことだ。ごく単純な現象を、ひどく複雑な数式や概念を使って表示するというのでは、本末転倒だろう。科学とは、複雑な現象を単純な形で表現するためにあるのであって、単純な現象を複雑に表現するためにあるのではない。
 本質的に言おう。「複雑系の科学」は、現実の現象を「後づけの理屈」で近似するだけだ。現実の現象が、ある見えない原理によって変動するとき、その見えない原理そのものを示すかわりに、発現した変動だけを外から眺めながら、近似的に示すだけだ。それはそれで、いくらかの意味はある。とはいえ、そんなことをいくらやっても、根本的な原理を知ることはできない。表面をいくら撫でても、奥にある核心をとらえることはできない。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   自然科学の枠組みのなかで、従来の方法を改良する立場も現れた。
   一つは、変数として「時間」を取り込む方法だ。
   もう一つは、関数の概念を拡張して、特別な関数を用いる方法だ。
   しかしそのどちらも、経済学の根本的な原理を示すことには失敗した。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇均衡/不均衡   
 
 改良主義はいずれも失敗した。つまり、「自然科学の枠組みのなかで、従来の方法を改良する」という方針では、駄目なのだ。
 では、なぜか? それは、先に述べたことからわかる。そもそも「可逆性」の成立しない場面では、「関数」という概念が成立しないからだ。
 となると、数学的にはどうしようもないのだろうか? お手上げなのだろうか? いや、そうではない。なぜなら、代数学のほかに、幾何学もあるからだ。「関数」という概念は、代数学の概念だ。一方、代数学を越えて、幾何学の方法を取ることもできる。
 幾何学の分野には、「カタストロフィ理論」というものがある。この理論は、「不可逆性」というものを、幾何学的に示す。実を言うと本書も、この数学理論の発想を取っている。ただし、専門的な数学理論をいちいち説明するのは大変だから、理論でなく結果だけを、経済学の分野に適用した。──それがここまで本書の取ってきた方針だ。ただし、今ここでは、基盤となる発想を説明している。そこであらためて、本書の発想を説明しておこう。
 
 本書では、基本的な発想として、次の区別を取る。
      均衡/不均衡
 この区別から、「不可逆性」という概念が説明されるのだ。(その背後には、前述の幾何学的な数学思想があるが、今は特に意識しなくてもよい。)
 さて。「均衡」や「不均衡」とは、何のことか? ──その問題をめぐって、いろいろと説明しよう。(このあとかなり長い話が続く。)
 
 まず、「均衡」とは何か? それは、「二つの力が釣り合っている」という状態だ。ここでは、釣り合っている二つの力(PとQ)を、等式で記述することができる。次のように。
    P Q
 例を示そう。てんびん秤がある。右の皿の値と、左の皿の値は、釣り合っている。このことを、等式で示せる。
 ここでは等式は、「二つの力が釣り合っている」ことを意味するだけだ。つまり、「それぞれの皿に載せられたものが、重量という尺度では同じ値である」ということを意味するだけだ。たとえば、右の皿にバナナが載せられ、左の皿にリンゴが載せられている。それぞれの重量の値が等しい。ここでは、「重量の意味で等しい」ということを示すだけであり、「味や値段の意味で等しい」ということを示しているわけではない。だからこそ、重量の単位(グラム)がある。この単位は決して便宜的なものではない。「その単位のある次元に限って等式が成立する」ということを、厳密に指定しているのだ。単位なしの物理法則は無意味である。
 物理学では、「左辺 = 右辺」という形で等式が現れる。ここでは、「左辺の力と右辺の力が、その単位の次元において、力として釣り合っている」ということを示しているだけであり、「両者がまったく同じものである」ということを示しているわけではない。このことを勘違いしてはならない。
 本章の冒頭で述べたことを思い出そう。「科学的な方法とは、数式で表すことだ」と見なされることが多い。しかし正しくは、「数式で表すこと」というより、「等式で表すこと」である。その意味は、「二つの力が釣り合っている状態を示すこと」である。ニュートン力学の数式であれ、シュレーディンガー方程式の数式であれ、その数式はろくに意味もなく導入されているのではない。その数式は、「右辺と左辺で力が釣り合っている」ということを示しているのだ。そして、その力がどんな力であるかを、単位が示しているのだ。(たとえば、「グラム」という単位で示される等式では、その単位の力が釣り合っている。)
 
 「均衡」という概念を理解したあとで、その逆として、「不均衡」という概念を得ることができる。
 たとえば、てんびん秤で、右の皿と左の皿の値が釣り合っているとしよう。ここで、右の皿に重りを追加すると、とたんに、てんびん秤は傾いていく。このとき、「均衡」が崩れて「不均衡」になる。
 さて。ここで注意すべきことがある。「数式化」の逆は、「数式化できないこと」つまり「不明」である。しかし「均衡」の逆は、「不明」ではなく、「不均衡」なのだ。
 「二つの力が釣り合っている状態」(均衡)の逆は、「二つの力が釣り合っているかどうかわからない状態」(不明)ではなく、「二つの力が釣り合っていない状態」(不均衡)である。──ここを、混同しないようにしよう。
 「不均衡」をこのように理解することは重要である。なぜか? 従来の発想では、「数式化」および「均衡」という概念ばかりがあった。その発想では、「数式化あり/数式化なし」という区別、または、「均衡あり/均衡なし」という区別しかできなかった。しかし、「力の釣り合いが崩れた状態」というふうに「不均衡」という概念を理解すれば、従来よりもずっと広い範囲を見ることができる。
 たとえて言おう。モミジの葉に、赤と緑の二通りがある。ここでは、赤と緑の両者をそれぞれ理解した上で、両者の間の変化を探るべきである。一方、「緑」を本来の姿と見なして、「赤」を「緑ではない状態」と見なすのでは、正しい理解とはならない。ここでは、発想の範囲を、「緑だけ」から「緑と赤の双方」に拡張するべきだ。そして、そういうふうに拡張された発想が、「均衡/不均衡」という本書の発想だ。
 
 こう理解すると、従来の経済学の限界も判明してくる。従来の経済学(特に古典派)は、自然科学の方法を取ろうとして、なるべく数式化しようとしてきた。そのとき暗黙裏に、「均衡」を前提とした。つまり、「均衡が本来の状態であり、均衡を逸脱した状態が不均衡である」と見なした。
 しかし、そうではないのだ。現実の経済現象には根源的に、「均衡」と「不均衡」の二つの状態があるのだ。とすれば、「不均衡」と「均衡」を対等のものと見なして、両者の間で相互的な変化の過程を調べるべきだったのだ。しかるに古典派は、そうしなかった。そこに古典派の失敗の理由がある。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   「数式化」にこだわる発想は、発想の範囲が「均衡」に限定されていた。
   しかし「均衡」と「不均衡」の双方へ、発想を広げるべきだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇均衡と不均衡のモデル   
 
 「均衡」だけから 「均衡/不均衡」の双方へと発想を広げるべきだ。では、そうすると、どうなるか? もちろん、「均衡/不均衡」の経済モデルを提出できる。それが本書で示した二つのモデルだ。すなわち、トリオモデルと修正ケインズモデルだ。
 この二つのモデルは、「均衡/不均衡」へと発想を広げたことで、不均衡の本質を次のように示すことができる。
   @ トリオモデル
      ・ 不均衡の原因は、需要曲線の左シフト
      ・ 不均衡の量は、左点と右点の距離 (需給ギャップの幅)
   A修正ケインズモデル
      ・ 不均衡の原因は、限界消費性向の低下
      ・ 不均衡の量は、階段状の破線における縦線の長さ
 この二つがある。そのどちらでも、不均衡の量は数値的に示される。不均衡の量がどんどん縮小していったすえ、ついにゼロになったとき、不均衡が解消する。それがつまり、均衡の状態だ。
 
 不均衡が解消していく過程は、モデルでは次のように示せる。
   ・ ミクロで …… 下限直線割れの量がだんだん縮小していく
   ・ マクロで …… スパイラルが進行していく
 均衡と不均衡との間の変化が、モデルにおいて連続的に示される。そのことに注意しよう。
 結局、均衡と不均衡とは、まったく異なる状態ではないのだ。何らかのパラメータ t を用いて表現しよう。 t の値が変化したとき、 t の値が一定値 M までなら、均衡状態が続く。しかし t の値が一定値 M を越えると、不均衡の幅が広がる。つまり、一定値 M を越えるか否かで、均衡と不均衡とが区別される。
( ※ このことは、カタストロフィ理論でうまく説明される。)
 
 こういう発想は、従来の発想とは異なる。
 従来の経済学では、均衡点は、「方程式の解」であった。それは図形的には、「曲線または直線の交点」として示された。次のように。
   ・ 古典派で   …… 需要曲線と供給曲線の交点 (ミクロ)
   ・ ケインズで …… 生産直線と消費直線の交点 (マクロ)
 いずれにおいても交点は、「方程式の解」であり、「唯一の状況」であった。それが「均衡点」であった。その発想では、「均衡点」は最も安定的な状況であり、「均衡点からはずれれば、均衡点に戻るのが自然である」と結論された。
 
 一方、本書の発想では、均衡点は、「方程式の解」ではないし、「許容される唯一の状況」でもないし、「最も安定的な状況」でもない。
 本書の発想では、「不均衡」から「均衡」へと移るのは、自然にそうなるからではなく、「不均衡の量を減らす」という具体的な力が働くからだ。(ミクロ的にも、マクロ的にも。)
 マクロ的には、力が働くというのは、スパイラルが進むということである。では、スパイラルが進むときは、何が起こっているのか? その一段一段ごとに、一定の事象が起こっている。その事象は、次の二つだ。
   ・ 需要 → 供給
   ・ 需要 ← 供給
 この二つの事象がある。前者は、「消費 → 生産量」に相当する。これは、基本数式の第1式によって示される。後者は、「消費 ← 生産量」に相当する。これは、基本数式の第2式によって示される。(前者は「生産量が消費の関数として決まる」ということであり、後者は「消費が生産量の関数として決まる」ということだ。)
 この二つの事象が両方とも成立すると、循環の輪が完結する。かくて、循環構造が成立する。そのとき、スパイラルが起こる。
 逆に言えば、この二つの事情のどちらかが起こらなければ、循環構造が成立しないので、スパイラルは起こらない。(例は前出。)だから、スパイラルが起こるかどうかは、スパイラルを起こす条件が成立するかどうかによって決まる。決して、「均衡点が安定的だから、ひとりでに均衡点に近づく」というようなわけではないのだ。力が働くときもあり、力が働かないときもあるのだ。
 
 従来の経済学では、「均衡」概念を基本概念とした。「不均衡」については「均衡ではない状況」として規定するだけだった。しかし本書では、「均衡」と「不均衡」という双方を基本概念とした上で、双方の間における連続的な変化の過程を調べる。このように、「均衡」と「不均衡」の間の連続的な変化の過程を調べることこそ、決定的に重要だ。
 スパイラルの過程を調べるということにも、そういう意義があるのだ。スパイラルの過程とは、ただのモデルごっこで示されることではない。スパイラルの本質は、「均衡」と「不均衡」の間の連続的な変化の過程なのだ。その過程は、いわば力学的に解明される必要がある。そのために循環構造やら数列やらが示されたのだ。
 そして、スパイラルとは何かを本質的に理解すれば、「均衡点」とは何かもわかる。均衡点とは、「最も安定的な点」のことではなくて、「数列の収束点」である。当然、「放置すれば速やかに均衡点に到達する」ことはなく、逆に、「そこに到達するには無限の時間がかかる」のである。換言すれば、「そこに近づくことはできても、そこに到達することはできない」のである。「収束点」(極限値)というのは、そういうものだ。
 とにかく、経済学のモデルの奥には、「均衡/不均衡」という概念がある。このことに留意しよう。
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   本書の二つのモデルの奥には、「均衡/不均衡」という概念がある。
   「均衡」と「不均衡」の間の連続的な変化が、モデルで示される。
   その連続的な変化の過程として、スパイラルもある。
   スパイラルが進むとき、それぞれの過程で何らかの力が働いている。
   マクロの均衡点は、安定的な点のことでなく、数列の収束点のことだ。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇均衡と不均衡の原理   
 
 「均衡/不均衡」という概念について、ひととり説明を終えた。ここまでは経済学的な話である。
 さて。話を拡張して、もっと広い範囲を見ることにしよう。経済よりももっと広い範囲で、「均衡/不均衡」を考えよう。すると、次のような例も見出される。
 
   @ 硫酸銅の溶液
 「硫酸銅を水に溶かす。硫酸銅をどんどん入れると、硫酸銅はどんどん溶ける。しかし、限度を超えて入れると、もはや溶けない(析出する)。」
   A ドンブリと十円玉
 「水に浮かべたドンブリに、十円玉を載せる。十円玉をどんどん載せても、ドンブリはずっと浮いている。しかし、限度を超えて十円玉を載せると、ドンブリは急に沈む」(@の場合と同様。)
 
 この@Aでは、一定限度までは均衡が続くが、一定限度を超えると均衡が破れる。そういうふうになている。似た例は、社会現象にも見出される。次のように。
 
   B 沈没する船の救命ボート
 「沈没する船で、各人が救命ボートに載る。救命ボートに載る人数が一定量までなら、全員が救命ボートに載れる。しかし、一定量を超えた人数が救命ボートに載ると、救命ボートが沈んで、載った全員が溺れる」(Aの場合と同様。)
   C 火事の映画館
 「火事の映画館で、各人が出口に向かう。出口に入る人数が一定量までなら、その人数は出口を通り抜けられる。しかし、一定量を超えた人数が出口に殺到すると、出口が詰まって、全員が通り抜けられなくなる」(Bの場合と同様。)
 
 さて。BCの場合では、次のことが成立している。
 「各人がそれぞれ、自己利益のための行動を取る。人数が一定量までなら、自己利益をめざす行動がまさしく自己利益をもたらす。しかし、人数が一定量を越えると、自己利益をめざす行動が自己に不利益をもたらす」 …… D
 ここでは、古典派の信じる「神の見えざる手」という原理が成立しなくなっている。なぜなら、「神の見えざる手」という原理は、次のことを意味するからだ。
 「各人がそれぞれ自己利益のための行動を取る。すると、自己利益をめざす行動がまさしく自己利益をもたらす」 
 一方、ケインズ派の理論では、これとは逆の原理が示されている。次のことだ。
 「各人がそれぞれ自己利益のための行動を取る。すると、自己利益をめざす行動がかえって不利益をもたらすことがある」 …… E
 これを言い換えると、次のようになる。
 「各人が自己利益をめざす。少数がそうするならともかく、大多数がそうすると、逆に、その行動が各人にとって不利益になる」 …… F
 この概念を「合成の誤謬」という。
 
 不況のときには、「合成の誤謬」が成立する。換言すれば、「神の見えざる手」が働かない。
 「神の見えざる手」が成立しない状況とは、「合成の誤謬」が成立する状況のことである。この状況は F → E → D → C → B → A → @ とたどることで、「硫酸銅の析出」の原理と同様となる。そしてまた、 @ は「均衡」から「不均衡」へと変化する現象なのである。
 だから、「神の見えざる手」が成立しない状況とは、「不均衡」になった状況のことなのだ。こうして、「神の見えざる手」が成立しない状況、つまり、「悪魔の見えざる手」の成立する状況が、「均衡/不均衡」という基本概念で、説明されることになる。
 結局、「悪魔の見えざる手」の本質を理解するということは、その根源にある「均衡/不均衡」という概念を理解するということなのだ。本書で長々と説明したことの背景には、「均衡/不均衡」という概念があるのだ。この概念があるからこそ、経済現象を正しく理解できるようになるのだ。
( ※ 本項で述べた説明は、やや大急ぎの説明であり、舌足らずだが。)
    要旨 】
   ┏───────────────────────────────────
   「均衡/不均衡」という概念は、経済学以外の分野でも成立する。
   経済学における「均衡/不均衡」は、その一例であるにすぎない。
   ┗───────────────────────────────────
 
◇等式と不等式   
 
 本章の最初では、「等式」という概念を示した。この概念と、「均衡/不均衡」という概念とを、結びつけよう。
 「等式」が示すのは、「二つの力が釣り合っていること」である。これはまた、「二つの力が均衡していること」でもある。(力でなく、物質の量であることもあるが。) 
 
 「均衡」は「等式」に相当する。それと同じように、「不均衡」は「不等式」に相当する。たとえば、てんびん秤を見よう。均衡状態では左右の皿に「等式」が成立するが、不均衡状態では左右の皿に「不等式」が成立する。
 不等式の成立する状況では、等式が成立しないから、ここでは「方程式」という形で数式化することはできない。すなわち、普通の「科学的な方法」を取ることはできない。
 では、「科学的な方法」を取れなければ、真実に到達できないのだろうか? いや、そんなことはない。「等式」を得ることはできなくても、「不等式」を得ることはできるからだ。代数的な方法を取ることはできなくても、幾何学的な方法を取ることはできるからだ。(この幾何学的な方法が「カタストロフィ理論」だ。)
 
 幾何学的な方法では、代数的な方法のように、「数値予測」はできない。その意味で、限界はある。
 では、幾何学的な方法は、役立たずなのだろうか? いや、そんなことはない。なぜなら、「予測が的中する」という成果は挙げられなくとも、「予測が的中しない」という成果を挙げることができるからだ。(逆説的だが。)
 このことはわかりにくいかもしれないので、例を示そう。たとえば、自動車を運転して、道を進んでいるとしよう。自然科学的な方法を取るなら、「5キロ先に穴がある。ゆえに、自動車は穴に落ちるだろう」と精確に予測する。そして、予測が的中すれば、「予測が精確に的中したぞ」と喜ぶだろう。しかし経済学では、予測が精確に的中する必要はない。かわりに、「ざっと5キロ先に穴があるぞ」と、おおまかに指摘してから、「このままでは危ないから、進路を変更せよ」と教えればよい。そう教えられれば、穴に落ちることを避けることができる。ここでは、予測が的中することが大事なのではなくて、予測が的中しないことが大事なのだ。
 「均衡/不均衡」の理論は、普通の自然科学の方法とは違う。これは、精確に予測する理論ではなくて、おおまかに真実を告げる理論である。「5キロ」という値を精確に示す理論ではなく、「穴に落ちる」という事実を確実に示す理論である。ここでは、ケインズの例の言葉が生きる。
    「精確に間違うよりは、おおまかに正しい方がいい」
 この言葉を噛みしめよう。
 
 もっと根源的に考えよう。
 自然科学の方法は、「精確に予測する」ことに成功してきた。では、なぜか? 自然科学の力が強いからか? いや、自然科学の範囲が狭いからだ。
 自然現象は、人間の力の及ばないものである。だからそれについては、「予測する」ぐらいしかできない。たとえば、木から落ちたリンゴは、いくら人間が念力をかけても、リンゴの軌道を変更することはできない。だからこそ、「精確に予測する」ことが重要だ。
 一方、社会現象は、人間の力の及ぶものであるから、「予測する」以上のことができる。金利や財政や税率などのさまざまな変数を人為的に変更して、景気を人為的に動かすことができる。あるいは、政府の人々が意図しないまま、世間の人々が気まぐれに心理を変更して、景気変動を起こすこともある。社会現象は、人間の力しだいで、どうにも動くものなのだ。──だからこそ社会科学では、「予測する」以上のことが大切だ。未来の値を知ることよりも、今の時点で何をするべきかを知り、未来そのものを左右することの方が重要だ。
 「均衡/不均衡」の理論は、自然科学よりも弱いことしか言えない。しかし自然科学よりも、もっと広い範囲を扱える。そこでは、定量的でなく定性的な形で、物事は説明される。そして、そういうことができたとき、われわれは、おのれの理解しうる範囲を広げたことになる。視野を拡大して、これまで知らなかった真実を見ることができるようになる。
    要旨
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   「不均衡」の理論は、「等式」のかわりに「不等式」を用いる。
   そのことは、数式化できないという弱点があると思えるかもしれない。
   しかし、そのことで、理論がいっそう広い範囲を扱えるようになる。
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◇エピローグ   
 
 語るべきことは、すでに語り終えた。ついでに、余談ふうの話を加えておこう。それは「愛」の話だ。
 「悪魔の見えざる手」について、ずっと説明してきた。では、悪魔の手から逃れるためには、どうしたらいいのか? 神の手と悪魔の手は、同じものだとすれば、両者のかわりとなるものはないのか?
 実は、ある。
 
 話の根本にさかのぼろう。「神の見えざる手」とは、そもそも何のことか? 本質的には、次のことだ。
 「各人のエゴイズムに任せれば、状況は最適化する」
 現実には、そうなることもあるが、そうならないこともある。つまり、次のようになることもある。
 「各人のエゴイズムに任せれば、状況はかえって悪化する」
 これは「合成の誤謬」の状況だ。この状況では、「神の見えざる手」が「悪魔の見えざる手」に転じている。
 ここまでわかれば、「神の見えざる手」と「悪魔の見えざる手」のどちらからも逃れる方法がわかる。すなわち、前件としての「エゴイズム」を捨てることだ。かわりに、別のものを取ることだ。では、別のものとは?
 それは、エゴイズムの逆、つまり、愛だ。
 では、「愛」とは何か? 古典派経済学者ならば、こう主張するだろう。
 「愛? つまり、自分の利益を他人に与えることか? そんなことは、ただの偽善だ。それが原則となれば、他人から利益を与えてもらおうとして、誰もが怠ける。そのせいで、社会はかえって悪化してしまう。愛なんて、きれいごとを言っても駄目だ。科学的に考えれば、状況を改善するものは、エゴイズムしかない」
 これは、いかにもわかりやすい理屈だ。しかしながら、これは間違っている。その証明を、簡単に示そう。
 
 数学の分野に、ゲーム理論というものがある。この理論によれば、行動と結果には、二つのタイプがある。「総和がゼロになるタイプ」と、「総和がゼロにならないタイプ」だ。
 「総和がゼロになるタイプ」では、各人は、自分の利益だけを考えればよい。(古典派の主張するとおり。)
 「総和がゼロにならないタイプ(マイナスになるタイプ)」では、各人が自己利益をめざして行動すると、かえって全体の和は減っていく。これが「合成の誤謬」という状況だ。──ただし、各人が自己利益をめざすのとは逆の行動すれば、どうか? 全体の和は、減るどころか、かえって増えていくのだ。ここで、自己利益をめざすこと(エゴイズム)とは逆の行動基準が、「愛」と呼ばれる。
 「愛とは自分の利益を他人に与えることだ」と古典派経済学者は言うだろう。しかし、その発想は、「全体の和は不変である」ということを前提にしているのだ。現実には、その前提は必ずしも成立しない。
 「愛」とは何か? 自分の利益を他人に与えることか? 違う。自分の小さな不利益を代償として、全体の利益を大幅に増やすことだ。たとえば、自分が1の損をしても、他者が2の利益を得れば、差し引きして、全体では1の利益となる。それが愛の効果だ。ここでは、「全体の和は不変である」という前提は成立しないのだ。
 誰か一人だけが「愛」の行動を取るだけなら、全体の利益はほとんど変わらない。しかし、全員が「愛」の行動を取れば、「与えて、かつ、受け取る」という形で、各人がたがいに与えあうことによって、全体として大きな利益が生じる。かくて、全体の総和を増やせる。──これが、「愛」の原理であり、「悪魔の見えざる手」を逃れる原理だ。
 
 文明社会では、この原理は広く実現している。たとえば、各人は税を払って少し損をするが、かわりに文明社会を築けるという大幅な利益を得る。逆に、原始的な社会では、この原理が成立しないので、無秩序な奪い合いだけがある。各人は他人のものを盗んで、少しだけ得をするが、次には自分のものを盗まれて、大損する。
 古典派経済学者にあるのは、エゴイズムへの信奉だけだ。しかし大切なのは、エゴイズムではなくて、愛だ。奪うことではなくて、与えることだ。正確に言えば、一方的に与えるかわりに、たがいに与えあうことだ。そのとき、社会は全体として向上する。
 
 動物もまた、「愛」の原理を本能的に知っている。たとえば、親は自己犠牲をして、子供に利益を与える。それは、なぜか? 親は利益を計算できないほど愚かだからか? 違う。ここには、愛の原理があるのだ。親は子に食物を与える。ただし親もまた、自分が子供だったころには、自分の親から食物を受け取った。──そうだ。子供のころには、自分では食物を得られないがゆえに、親から食物を受け取る。自分が親になったら、自分の子に食物を与える。こうして、親子の「愛」という原理を通じて、動物は全体として非常に大きな利益を得る。(特に哺乳類。)
 仮に、親の愛がなければ、生まれたときから、自分で食物を獲得しなくてはならない。そういうことをするのは、下等な生物だけだ。下等な生物は、エゴイズムの原理に従うがゆえに、全体として大きな利益を得られなかった。高等な生物は、愛の原理に従うがゆえに、全体として大きな利益を得ることができた。
 
 そうだ。大切なのは、エゴイズムではなくて、愛だ。各人の単純な損得ではなくて、全体としての損得だ。そういう広い視点をもとう。
 そして、こう理解すれば、経済学における正解もわかる。それは、「狭い範囲の損得を捨てて、広い範囲の損得を見ること」である。(「一時的でなく長期的に見る」と言ってもいい。)
 例示しよう。不況から回復しつつあるとき、政府はこう主張する。
 「政府は自分の利益のために、国民の利益を吸い上げよう」
 ここにあるのは、国民と政府とが奪い合うという発想だけだ。その根底には、「全体の和は一定である」という前提がある。そして、そこには、「全体の和を増やそう」という発想がない。
 国民が健康なときなら、それでもいい。全体の和は増えている限り、「奪い合い」をしても、あまり問題は生じない。しかし、国民が病気のときなら、それでは駄目だ。全体の和は減っているときに、「奪い合い」をすれば、政府が多く取れば取るほど、国民が衰弱する。かくて、全体の量が大幅に減ってしまう。(いわば、目先の富を得ようとして、金の卵を生むガチョウの腹を割くようなものだ。元も子もない。)
 ここでは、「全体の量を増やす」という発想を取るべきなのだ。──それがマクロ経済学の発想だ。
 「中和政策」は、マクロ経済学の発想を取り、「全体の量を増やす」ことをめざす。この目的を実現するために、「与えてから、返してもらう」という方法を取る。先に与えることで、あとで多くを得ようとする。
 この発想は、「愛」の原理と同様だ。ここでは、エゴイズムとしての「奪い合い」のかわりに、愛としての「与え合い」がある。そのことで、全体の富を増やそうとしているのだ。
 
 愛。──それは、ただの心理的な感情ではないし、非科学的なたわごとでもない。それは社会を健全に機能させるための基本原理だ。つまり、真実だ。
 しかるに、古典派経済学者だけは、愛とは逆のエゴイズムをばかりを主張する。そして、そこからもたらされるのが、「悪魔の見えざる手」だ。人々はそれに、苦しめられる。
 とすれば、人々が不況のときに苦しむとしたら、人々が愛をなくしたからなのだ。人々が不況のときに損をするとしたら、人々があまりにも自己の利益ばかりを求めたからなのだ。金と富ばかりに目を奪われれば、かえって、金も富も失うのだ。──悪魔にたぶらかされるように。
 
                                                      [ 完 ]